風俗に行っても処女厨は治らない
「処女厨」というのは、処女が好きで好きで仕方のない人のことだ。
「処女」というのはもちろん、性行為をしたことがない女性のことを指す。
少し考えればわかることだが、多くの人は厳密な意味での「処女」なんて求めていない。性風俗店のホームページを見れば明らかだ。
日本の性風俗店では「業界未経験」や「男性経験ゼロ!」なんてことが風俗嬢の1つのステータスになっている。もはや「素人の初心な女の子とエッチなことができる」ということは、日本の性風俗店の価値の中心に位置している。
端から見れば、矛盾も甚だしい。
例え業界未経験であっても経験人数ゼロであっても、初心なのは最初の間だけだ。そもそもなぜ「不特定多数の人と性行為をする」ということが前提のお店に置いて、「業界未経験」や「経験人数ゼロ」なんてものを求めるのだ。バカなのか?そうだ。バカだ。しかもワシは素人童貞だ。バカなのに素人童貞だ。いや、バカだから素人童貞なのかもしれない。もし「バカだから素人童貞」なのだとしたら、僕はバカな時点で素人童貞ということを運命づけられていたということになる。もし、そのように運命づけられているのだとしたら、さっき「バカなのに素人童貞だ」って言っていた僕があまりにも救われないではないか!バカだから素人童貞を運命づけられているのに「バカなのに素人童貞だ」なんて言っているだなんて、世界の認識が根本的にずれてしまっている。可哀想だ。しかし、それもバカに運命づけられたことなのかもしれない。
要するに、風俗客が求めている「処女」というのは「処女っぽさ」にすぎない。実際に本当の処女が働いてサービスも不十分なら、2chか風俗レポサイトにボロクソ書かれて終わりなのである。一部のおじさんは優しくしてくれるかもしれないが。
処女っぽく、そしてサービスも素晴らしい。
これが求められている。理想の処女だ。風俗客はワガママなんだ。
なんでこんなワガママになってしまうのかと言えば、処女厨が亡霊のように付きまとってくるからである。処女厨は引き剥がそうとしても引き剥がせない性質のものなのである。
ここら辺は性風俗に関係している人であれば当たり前のように知っていることだろう。 しかし処女厨はもっと根深い。僕はさらにもう一重の処女厨を背負っている。
風俗レポサイトでは、よく「口開け」という言葉が登場する。
「口開け」とは、その日出勤した風俗嬢の最初のお客さんで入れたということである。
「今日は◯◯ちゃんに口開けで入れた!」
なんて使い方をする。
僕はいつも口開けを狙う。口開けでないと諦めることすらある。
それは「風俗嬢のケアが不十分で前のお客さんの唾液がどこかに付着しているのかもしれない」というような非常に直接的な理由もある。しかしそれよりも、もっと精神的な理由の方が大きい。
今日、この女の子が自分より前に他の人とプレイをしたという状況だけで汚く思えてしまうのである。それは、恋人のふとした仕草の中に前の恋人の匂いを感じ取って汚さを感じてしまうような、そんなタイプのものである。
これもまた1つの処女厨だ。普通に重症だろう。
だって、自分の頭の中では風俗嬢は毎日、毎日、処女になる。
その日その日の処女を奪えるのは、口開けの客だけということになっている。
その日、その日の処女。
処女 of the day!!
処女 of the day!!
処女 of the day!!
頭のいいメサコンには腹が立つ
頭のいいメサコンには腹が立つ。
頭のいいメサコンはよくしゃべる。
頭のいいメサコンはあらゆる可能性を想定した上で人助けをしようとする。そうすれば自分はメサコンにならないと信じている。
例えば次のことを考えてみよう。
交通量が多く、信号のない横断歩道の手前で、腰の悪そうな、70代くらいのおばあさんがいたとする。
私はおばあさんをおんぶをして一緒に横断歩道を渡ることにした。
「良かったらおぶっていきますよ」
おばあさんは
「どうも」
と、快諾をしてくれた。
車が来なくなったタイミングで、おんぶをして横断歩道を渡る。
渡り終わると、お婆さんは恍惚な表情で
「ありがとう」
と言ってくれた。
実はこの時、 お婆さんは、おんぶをされて横断歩道を渡っている時の振動によって丁度いい具合で股間を刺激され、実に30年ぶりにオーガズムを迎えていたのだ。
もちろん、私はそんなこと知る由もない。
私とお婆さんは軽く挨拶をし、お別れをした。
頭のいいメサコンは、例え話で人助けの話が始まった時点で身構える。
自分の好意が相手に伝わらないこともある。それを想定した上で人助けをしなければいけないのだ!って。
頭のいいメサコンは頭が良い分、お婆さんの話が始まった時も
「おんぶをするということが老人扱いをしていることになるので失礼になるかもしれない!」
というようにすぐ考える。
そのようにあらゆる可能性を考えれば自分はメサコンではなくなると信じている。しかし、それは大きな勘違いだ。あらゆる可能性を考えていると思い込んでいるが、結局「自分と相手の気持ちの一致」というベクトルでしか考えられていないところが、どこまで行ってもメサコンなのである。
お婆さんはこちらの好意なんぞ軽く飛び越え、30年ぶりにオーガズムを迎える。
自分と相手の気持ちが一致しなくても、世界はそんなにも豊かなのである。
人生なんて一回切りなんだから、どうせなら楽しく生きようぜ地獄①
「人生なんて一回きりなんだから、どうせなら楽しく生きようぜ」
こんな言葉に触発されてしまったことは誰にでもあることだろう。
今自分がいる場所から一歩抜け出したところに行きたい!、まさにそんなことを考えている最中、テレビやラジオの向こうから、あるいは漫画の登場人物のセリフから、はたまた目の前にいる友達の口から、こんなことを言われた日には人生が一歩前進しそうなもんだ。
特に若い時なんてそうだ。
もし僕が自らの第二次性徴に目覚めたばかりの女子高生だったら、
「人生なんて一回きりなんだから、どうせなら楽しく生きようぜ」
という言葉に触発され、この世の深層を知ってやろうと、風俗で働き出していたかもしれない。まぁ風俗なんてこの世の表層中の表層でしかないけど。
おっと、なぜだか急に女子高生の気持ちになってしまった。
実際に自分がそんな言葉に触発されて何かをしたことがあるかと過去を思い出してみると、セルフ◯ェラくらいしかないわな。それくらいしか無いというのは恐らく嘘だろうが、セルフ◯ェラを成功させた時の感動が凄すぎてそれしか思い出せない。たしか2時間くらいかかった。いつ親や兄弟が入ってくるかわからない自室で、2時間くらいありとあらゆる方法で腰を曲げ、セルフ◯ェラに向かい一直線に走り続けた。初めは50センチ以上届かなくて一向に届きそうになかったのに、2時間も続けると差が縮まるもんだ。あれほど自らの成長を感じたことは今まで無い。一直線に走り続けて向こう側の世界へ行くことができたのだ!確か味は少しだけ苦かった気がする。
まぁそれくらいが僕の人生の頂点だ。
「人生なんて一回きりなんだから、どうせなら楽しく生きようぜ」
そんな精神はその程度のものなのだ。
なんかセルフ◯ェラのせいで話がずれてないか?
「人生なんて一回きりなんだから、どうせなら楽しく生きようぜ」
って言葉が悪いんじゃなくて、悪いのは普通に俺個人なんじゃないか?って思いが込み上げてきて不安になってきたけど、話を続けることにしよう。
いや、ここでもう一回話を脱線させておこう。
「セルフ◯ェラ」という表記について。一応下ネタなので一文字隠しにしてはいるが、「セルフ◯ェラ」という表記にすると「"セル" "フ◯ェラ"」というように人は文字を認識し、後ろの4文字を見ただけで「◯」の中に何の文字が入るのか、思考する以前にわかってしまうのである。
就活について①
今年は就職活動をしてサラリーマンになった。
昨年、大学院で倫理学を学ぼうという気持ち2割と、働きたくないという気持ち8割の意気込みを持って、都内の某大学院を受験することにした。
お金の支援が欲しかったので一応親にも相談をしたら
「まぁお前を勝手に産んだのも俺らだし、好きなことやっていいけどさ、大学院の学費くらいは貯めることが条件な」
と、中卒ブルーカラー酒とタバコとギャンブル網羅親父が言ってくれた。出産の身勝手さを認めた上で建設的な提案をするという、非常に倫理的な答えが返ってきて驚いた。まぁ倫理的な感覚については学歴など関係ないのだろう。
一方、大卒母親は
「なんで?」
と問い、
「勉強したいから」
と僕が応えると、
「そんな勉強ばっかしてもしょうがないよ」
と返答してきた。これまた驚いた。 今まで母親はしきりに
「勉強しなさい」
と言ってきたからだ。
高校で進学校に入学し、300人の生徒の中でビリから3番目くらいの成績をとった時なんか、どれだけ母親が悲しい思いをしているのかという長文メールを送ってきたほどだ。 文章の終わりには「アンジェラ◯◯(母親の本名)」とあり、僕はあまりの母親の痛さにひっくり返りそうになった。お前、ペンネーム持ってたんか、と。思春期の僕には恥ずかしくて仕方がなかった。ひっそりと子供に隠していたペンネームを召喚してまで勉強をするように働きかけてきたそんなアンジェラが、大学院受験の時には
「そんな勉強ばっかしてもしょうがないよ」
と言ってきたのだ。この時ばかりは昔バカにしていたアンジェラに再開したい気持ちも生まれたが、勉強を応援してくれるアンジェラはもう見つけることができなかった…。
しかし、経験的に母親は僕がやりたい事を言ったら文句を言いながらなんだかんだでOKしてくれるという性格なので、とりあえず一回否定されるのはある種の儀式のようなものだと受け止めた。
その後は大学の先生が不要としていた本を神の力でお金にするという方法で大学院の学費をしっかり稼ぎ、冬の試験に向けて勉強をした。試験には第二外国語もあり、それまでろくに勉強をしてこなかったので、ドイツ語の勉強漬けになった。ドイツ語を中心に専門科目と英語の勉強を進め、試験の日が近づいてきた。
結果は、受験料の振込失敗であった。
受験料の振込の期限最終日に銀行に向かった。銀行は3時に閉まるので、心配性な僕は余裕を持って2時に銀行に向かった。少し待ち時間があり、2時10分頃に受付をしてもらうと、
「振込は2時までです。ごめんなさい。」
と言われた。最近受付に姿を現した若い女性の方だったので、おそらく新人で、まるで悪いのは自分であるかのように、とても申し訳なさそうに謝られた。 こうして僕の大学院受験は終わった。
「しかし、こう考えることができる。単に私が受験料振込に失敗したのではなく、私の無意識がそうさせたのだ。深層のところで私は、大学院受験をしないことを望んでいたのだ…、と。」
こんな風に、勉強したてのラカン派精神分析を用いて自己正当化し、私が無意識に望んでいた就職活動を次の年から始めることにした。