人妻デリヘルレポート、あるいは、俺は凄いということ
「へぇ、弟いるんだ。弟とは仲良いの?」
「前までは仲良かったんだけど、弟が高校生になってからなんか仲悪くなっちゃって...」
「思春期だから色気づいてきちゃったのかな」
「う~ん、そうかなぁ。はぁ...、あの可愛い弟はどこに。。。」
弟を持つ20代のデリヘル嬢とそんな会話をした後に
「あぁ、可愛いね、可愛いね」
と言われながら乳首をひたすら舐められるという、昨年末の甘酸っぱいデリヘルが忘れられていません。26歳素人童貞です。
先月、池袋の某人妻系デリヘルを利用した。同じグループのお店であっても、池袋の女性は少し清楚で童顔のような顔の人が多いように思えるのは気のせいでしょうか。
30歳前半くらいの、黒髪ロングの綺麗なデリヘル嬢が部屋に入ってくるや否や「なんかお兄さんメガネちょっと変わってるし、服も何だか独特だから、もしかしてサブカルですかぁ?私サブカルってよくわかんないですけど、もしかしてお兄さんってサブカルかなぁ~って」と、身体をモゾモゾさせながら言ってきた。人間に向かって「サブカルかなぁ~」とは、なんだその言い回しは。私は世間一般でサブカルチャーと名指されているものにあまり触れずに生きてきたので「全然サブカルじゃないよ」と、返しておいた。でも、〝1億総オタク化〟とか〝サブカルチャーがメインカルチャーになった〟とか、そんなことが言われている現代日本において、着実に利用客が減ってニッチな産業であり続けている性風俗の方が、よっぽど文字通りの意味でサブカルチャーなんじゃないかと思えてくる。
「それじゃあ、シャワー行きましょうね」
そう言いながらデリヘル嬢は私の服を脱がせ始めた。前側を止めるボタンも無くなり、尻には穴があいているボロボロのスーツのズボンを脱がせるや否や
「えぇぇっ!? デカくない!?」
と、デリヘル嬢が目を丸くした。
「いやいや、それは違うよ。これはね、ちんちんがデカいんじゃなくて、ちんちんと金玉の入るスペースが確保されているパンツだから、デカく見えるだけなんだ」
「え!? そうなの!? っていうか普通のパンツって、金玉の入る場所ってなかったっけ!?」
「普通の男性用のパンツはね、そんな風にはできていないよ。そういうパンツはね、夏とかになると蒸れて金玉の裏が痒くなってきちゃう人とかもいるんだ」
またこの日も私は、パンツの力で男性器を、知識の力で自分をデカく見せていた。まぁ、そもそもラシュバンのパンツ自体もデリヘル嬢から紹介してもらって知ったものであるのだが。
裸になったところで、デリヘル嬢が私の男性器を手で掴み、犬のリードでも引っ張っていくようにして浴室へと連れていってくれた。これは私の経験上での話でしかないのだが、男性器を引っ張って浴室へ連れていってくれるデリヘル嬢は皆30代以上だ。20代では見たことがない。私がまだ20代前半で、初めてアラフォーのデリヘル嬢に男性器を引っ張られて浴室へ連れていかれた時、
「え~、なんでちんこ引っ張っていくんすかぁ(笑)」
と、素朴な疑問をそのまま声に出したところ
「不安なのっ!」
と、急に真顔で言われてしまい、その時のデリヘル嬢の表情を見て私もとてつもない不安に襲われたことは言うまでもない。その時の不安を数年経った今でも引きずっているため、私は決してなぜ男性器を引っ張っていくのかの理由を問うことはせず、引っ張られるがままに浴室へと向かった。
シャワーを浴び、少し寒い思いをしながらベッドに移り、仰向けに身体を寝かす。デリヘル嬢は熱心にこちらの身体を舐めて、アナルも舐めて、それからフェラチオをした。
「ねぇ、お兄さんはさ、フェラした後にキスしてもいい人?」
仰向けに寝ている私の頭上に、彼女の顔が現れた。
「全然いいよ」
そのままデリヘル嬢とキスをした。フェラをした後にキスをしてもいいかは確認するけど、アナル舐めの後にキスをしていいかは確認しないんだ、そう思いながらデリヘル嬢とキスをした。誤解しないで頂きたいのは、私は「アナル舐めの後にキスをしてほしくなかった」と訴えたいわけでは決してない。私は自分がアナルを舐められたいのであれば、もし頼まれた時のために相手のアナルを舐める準備は常にしておくべきだと思っているし、もちろんアナルを舐められた後のキスも拒否すべきではないとも考えている。政治的な立ち位置で言えば〝急進的アナル舐めラリスト〟と一般的には分類される立ち位置だ。そうであるから私は本当に純粋に、フェラの後にキスをしていいかは確認するけど、アナル舐めの後にキスをしていいかは確認しないという、そのデリヘル嬢の言葉の裏に隠れているフェラ観やアナル観が興味深いと思ったのだ。彼女はもしかしたら人生経験の少なさからアナル舐めの後のキスは嫌がる人はいないと決め込んでいるのかもしれないし、アナル舐めの後にフェラをしたらなんとなくアナル舐めをしたことはリセットされるもんだと考えているのかもしれない。いや、実のところそんな考えは一切なく、ただただ アナル舐め→フェラチオ→キス という順番でプレイを運んでいったので「フェラした後にキスしてもいい人?」と聞いてきただけなのかもしれない。もしもアナル舐めに関する許可まで取ろうとしたら、「アナル舐めの後にフェラした後にキスしてもいい人?」と、9文字分多く発声する必要があってクールではないし、もしそれで断られでもしたら「じゃあもしフェラした後にアナル舐めしてキスしてたら良かったの?」と、仮定法過去完了形まで持ち出さなければならなくなってしまう恐れもあっただろう。2人の密な空間をつくることのが生業のデリヘル嬢が、キスをする際に仮定法過去完了形を持ちだすことで〝現在〟という最もムード作りに必要な時間の形式を相対化してしまうのは避けたいに決まっている。ムードを壊さない程度の文字数で同意を得るために採用された簡潔なフレーズが「フェラした後にキスしてもいい人?」だったというのが、この問題の穏当な着地点だろうか。
フェラの後のキスは、紛れもなくフェラの後のキスの味がした。フェラの前のキスにはない味だ。こんなことを言うと、心のどこかで男性器のことを憎んでいる人たちが何のエビデンスもなしに「お前のちんこが臭いからちんこの味がしたんだろ!」なんて言い出しかねないのは容易に想像されることであるが、フェラの後のキスの味というのは決してそういうことを指しているのではない。フェラの最中に女性の唇の上や口の周りに付着した女性自身の唾液が、時間が経過してカピカピになることにより発される独特な香り。それに加えて、フェラの直後のキスというのは、女性の口の形が男性器を口に入れている時の形を覚えがちなのである。そのようなフェラの前には存在していない乾いた唾液の香りと口の形状こそが、フェラの後のキスがフェラの前のキスとは一線を画している所以なのである。
フェラの後のキスの流れでデリヘル嬢が私の身体の上に乗っかり、ローションを手に拡げ、そのまま男性器を包むように掴んで腰を振り始めた。騎乗位素股である。やや大袈裟に腰を後ろに引くのに合わせて男性器を包んでいる手も同時に引き、再び腰をグッと前方に押しだすのに合わせて手先を前方へとストロークする。長年の経験で培われてきたであろう、挿入感の強い騎乗位素股だ。そのやや大袈裟な腰の動きは、もし本当に男性器が挿入されていたのであったならば簡単に膣から抜け落ちてしまうほどの振り幅であったが、戯画的な悲喜劇がかえって人間なるものの真実を焙りだすように、そのデリヘル嬢の素股の戯画的な腰の振り方は、かえって挿入における挿入らしさを実際の挿入以上にありありと現前させていた。
「きもひっ、きもひぃよぉぉお」
「ねぇ、どうしたいの?」
「イ、イキたいでひゅ~っ!」
少ない言葉のやりとりだけで私の気持ちを汲み取るのは容易だったようで、デリヘル嬢は身体を覆いかぶせるようにしながら私の顔の横に自身の顔を運び、耳元で「あぁんっ、あっ、あっ、あぁんっ」と喘ぎ声をあげながら腰を振り続けた。あまりのテクの高さに私はすぐにイキそうになった、いや、もっと正確に言えば〝イキそう〟という感覚が込み上げてきそうになった。この”イキそうという感覚が来そう”という、射精よりも2段階前の季節に、デリヘル嬢が男性器の方に目を落としながら
「あぁんっ、すごいっ! えっ!? すごいっ!」
と、それまでよりも遥かに明瞭に言葉を発した。
「すごいっ! すごい固くなってきてるぅぅぅうう~!」
イキそうになった瞬間に男性器に血流が昇ってきていることを皮膚で感知できるデリヘル嬢は数多いるが、このデリヘル嬢は射精の2段階前の”イキそうという感覚が来そう”という時期にそれを感知していたのだ。それに合わせて、まるでデリヘル嬢自身の身体の中にも血流が湧きあがって来ているかのように腰の振りを激しくさせて、私の耳元で声を荒げる。
「すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ! 」
あまりに早熟すぎる天才は、天才と認識された後の長い長い時間と向き合うのに苦労するのが世の常であるが、男性器の血流の上昇を感知するのがあまりに早すぎたこの天才デリヘル嬢は、その後の射精に至るまでの長い長い道のりを物ともせず、騎乗位素股の腰のスクロールに合わせて「すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ! 」と、私の鼓膜に単語をぶつけてくるかのようにひたすら声を張り続けた。
フランス文学者の蓮實重彦は『凡庸さについてお話させていただきます』という著書の中で、凡庸でないということとはどのようなことかについて語っている。
一般的に天才と言われている人間たちは「〇〇は△△よりも天才だ」「〇〇は◇◇において他の人間よりも優れている」というように、他人との相対的な差異や距離によって測られる。しかし蓮實によれば、そもそもそういった相対的な差異によって測るという価値基準、既知のものからの距離によって未知のものを理解するという姿勢、凡人と天才とを比較しながら区別する構図そのものが凡庸なのである。
じつは、誰でも、ある人間が決定的に秀れているという瞬間に立ち会うことがあるわけです。この〝決定的〟というのは絶対的という意味であって、先ほどいったような相対的なものではありません。相対的な差異の計測とは違った場所で、「これは凄い」といった感じをもつことがあるわけです。〝絶対的〟というのは、比較を欠いた荒々しさの前でわれわれがたじろぐことです。そうした場合、相対的な差異の識別を許す世界は消滅しています。 (『凡庸さについてお話させていただきます』 p17)
私は、他のデリヘル嬢よりも男性器への血流の上昇を感知するのがあまりに早いこのデリヘル嬢を天才的だと思っていたが、そのように他のデリヘル嬢との相対的な差異によって測ってしまう私はいかにも凡庸だったのだ。デリヘル嬢は、そういった私の凡庸さとは一線を画し、海綿体への血流の上昇という他とは比べられない絶対的な出来事、その事件性、私が自分では気づかなかった男性器の〝絶対的〟を感知し、「すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ!すごいっ! 」とひたすら声を張り続けたのだ。デリヘル嬢から発された1つ1つの「すごいっ!」というワードが、耳から頭に侵入しピンポン玉のように脳内を跳ね返り続け、私は文字通り頭がおかしくなりながら「俺はすごいっ!」と思いながら射精した。
きもちよかった。