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「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」と問いかけてくる「誕生日」というイベントについて

 昔から、誕生日が来るたびにどこかモヤモヤッとしたものを感じていた。記憶の限りでは、モヤモヤしたものを感じ始めたのは小学1年生くらいの時からだ。もちろん、小さい頃は家族や友達からプレゼントをもらえたり、ケーキを食べられるイベントというだけで誕生日は少なからず嬉しいものであった。それでも心のどこかで、自分を祝ってくれる人間に何故かケチをつけたくなるような、そんなモヤモヤッとした感覚が確かにあった。

 

 この感覚は年を経るにつれて大きくなっていくというか、とても自覚的なものになっていった。現在の年齢が20代中盤の私の中学生の頃というのは、前略プロフィールというのが流行り始めた頃で、高校生になるとネットを駆使する人たちはみんな前略プロフィールというものを持っていた。(前略プロフィールというのは今でいうFacebookとかTwitterの劣化版みたいなもので、自分のプロフィールを作って、そこにゲストブックや呟き機能などを自分で追加するようなもののことである)

 中学から高校にかけての私は、前略プロフィールで自分のプロフィールを公開する際に、【誕生日】の項目は非公開にしていた。公開でも非公開でもいいとかそういう感じではなく、積極的に非公開にしていたのだ。今現在、TwitterFacebookを使う時にもそうしている。

 

 なぜそうしているのかと昔の自分に問えば、祝われるのが照れくさいというか、祝われるというのはリアクションをしなくてはいけなかったりと面倒くさいこともあるし、なにより「この日が私の誕生日ですよ」アピールしてると思われるのが嫌だったからだろう。また、それと同じことであるが、そこには誕生日を祝ってくださいアピールをする人間に対する嫌悪というか、その傲慢さへの驚きというか、他人に祝われると思っているお前は一体何様なんだ、という思いも確かにあった。

 

 そんなもんだから、大学生にもなると、誕生日を聞かれても素直に答えることのできない人間になってしまっていた。大学入学直後なんかは新入生は皆浮かれていて、少し気合いの入った女の子が、誰にも頼まれていないのに同じ学科の人全員の誕生日をメモ帳に記すという奇行に走り出し、私も誕生日を聞かれることになった。

 

「えー、誕生日~?いいよ別に祝われたくないし、めんどくさいから。。。。」

 

 そんな感じで嫌な顔をしてしまったが、奇行者の勢いには勝てず、結局誕生日を教えてしまった。そんなこともあり、大学1年生の誕生日に同じ学科の人数名が誕生日を祝いに自宅に押し掛けてくれたが、居留守して幕を閉じた。以降、誰にも祝われることはなくなった。

 

 昔から「誕生日」にまつわることに関してはずーーっと、こんな感じでモヤモヤッとしたものを感じていて、なぜか理由はわからないけど、普通の人と同じように振る舞うことはできず、どんどんどんどん訳のわからん気難しい人間になってしまっていた。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

 自分がなぜこんなに「誕生日」にモヤモヤしたものを抱えていたのか、はっきりとすることがあった。ちょうど1年前の冬くらいに、社会学者の岸政彦さんの「断片的なものの社会学」のこんな一節を読んだ。

 

 誕生日をお祝いする、ということの意味が、ながいことわからなかったが、やっと最近になって理解できるようになった。ずっと、どうして「ただその日に生まれただけ」で、おめでとうを言ったり言われたりしないといけないのか、判然としなかったのだけれども、その日だけは私たちは、何も成し遂げなくても、祝福されることができる。誕生日は、一年にいちど、かならず全員に回ってくる。何もしないでその日を迎えただけなのに、それでもおめでとうと言ってもらえる。誕生日とは、そういうことだったのである。…(中略)…

 私たちは普段、努力してなにかを成し遂げたことに対してほめられたり、認められたりするが、ただそこに存在しているだけで、おめでとう、よかったね、きれいだよ、と言ってもらえることはめったにない。だから、そういう日が、人生のなかで、たとえ一日だけでもあれば、私たちは生きていけるのだ。(『断片的なものの社会学』 岸政彦)

 

  

 もちろん、私は岸政彦さんのように誕生日を肯定的に考えることはできないし、「そういう日が、人生のなかで、たとえ一日だけでもあれば、私たちは生きていけるのだ。」なんて言うことはできない。ただ、この文章を読んで、誕生日はただ自分が存在しているだけで祝われる唯一の日なんだな、と腑に落ちた。。。「ただ自分が存在しているだけで祝われる唯一の日」これほど恐ろしいものがあるだろうか。

 

 例えば、仕事の出来不出来で人から評価されるとき、「この人は仕事上で評価されるべき人間か否か」で評価される。自分の評価が良かろうが悪かろうが、そこには評価項目と自分の今までの仕事の成果というわかりやすい判断材料があり、自分の評価のされ方と結果についてある程度納得することができる。それに、いくら影響が大きかろうが、あくまで仕事上の話にすぎない。

 しかし、ただ存在しているだけで祝われる誕生日ではどうだろうか。ここでは、「この人はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という指標で評価される。そこには確かな評価項目も、判断材料もないし、祝われようが祝われなかろうが、確かな納得を得ることは難しい。いくらでも「自分という存在はもっと祝福されるべきだ!」とも思えるし、反対に、いくらでも「自分という存在は祝福なんてされるべきではない!」とも思えてしまう。

 私の場合は、確実に後者だ。もう自分がそういう考えになってしまうことはわかっている。だから誕生日はひた隠しにするし、できることなら祝われたくない。もし祝われてしまったら、「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という問いに否応なく襲われてしまうからである。

 

 

 誕生日というのは、どうやら他の日よりも自殺率が急激に高くなる日らしく、それは世界的に同様の傾向があるらしい。その原因はまだはっきりしていないようだけど、誕生日が「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という問いを発生させるイベントだという性質も一つの大きな要因であるだろう。その問いに対する応えとして、自殺を選択する、という人だっているだろう。

 

 1年に1度、誕生日はやってくる。

 1年に1度、「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という問いがやってくる。

 

 この問いと格闘してきて20数年。年数的に考えればもうベテランの領域なので、そろそろこの問いとうまく闘えるようになっていきたい。