大人になった自分が子供の頃の自分の願いを叶えてあげるということ
例えば、小学生の頃。ゲームソフトを買う時にこんなことを思っていた。
『もし僕が大人になって稼げるようになったら、欲しいゲームを一気にたくさん買って、ずっとゲームをし続けよう!』
それは、その時にそういう気持ちを心の中で呟きたかったというようなものではなく、もっと強烈に、未来の自分に届くように、あるいは、未来の自分に命令でもするかのように、強い気持ちで心の中で念じていた。
小さい頃からそんなことをいろんな場面で何度も何度も繰り返してきた。おそらく、そのうちの99%は忘れてしまっている。人間の記憶なんてそんなもんだ。でも、そのわずか1%が時たま、強い念力を持って語りかけてくる。
大学2年生の頃、ふとした瞬間に
『もし僕が大人になって稼げるようになったら、欲しいゲームを一気にたくさん買って、ずっとゲームをし続けよう!』
というあの頃の念力が語りかけてきた。大学1年生の頃はウィニングイレブンやスマブラなどのゲームを同じ学科の人とダラダラやっていたが、大学2年くらいの頃から、本当にゲームがつまらなく思えるようになってしまった。今までハマっていたのが何だったのか、と思えるくらいにゲームがどうでも良くなった。過去からの念力がやってきたのはそんな時だった。
もう、今いくらゲームを買ってもやらないであろうことはわかっていた。それに一気に大量にゲームを買ったところで、1度にプレイできるのは1つのゲームだけだ。一気に大量に買う意味もない。そんなことを冷静に考えられるくらいには大人になっている。でも、過去からの念力が語りかけてくるのが気になって気になって仕方がなかった。昔の自分の願いを叶えてあげるために、下宿先の近くのゲオに足を運び大量にプレステ3のゲームを買い込んだ。
家に帰って買い込んだゲームを広げ、さっそくプレイをした。自室に大量のゲームを広げた時は少し誇らしい気持ちもあったが、実際にプレイをしてみると案の定、楽しめない。たくさん買い込んだのにも関わらず、1つのゲームも最後までクリアすることすらできないくらい、ゲームをやりたいという気持ちがなくなっていた。買い込んだゲームはしばらくして処分した。
もう自分を取り巻く状況も、自分の考えも、昔とは変わってしまっているのに、あの頃の念力だけが純粋培養されたまま、自分の中に残っているということがある。
おっぱいもその1つだ。小学校高学年から高校生の頃まで、ずっと、女の人のおっぱいを舐めると幸せになれると思っていた。だって、AVの中の人やエッチな漫画の中の人はみんな貪りつくようにおっぱいを舐めるから。行列ができているお店は行列ができているというだけで美味しいお店だと思えてしまうように、あまりにもおっぱいがたくさんの人に舐められているもんだから、おっぱいはそれだけ、舐めると幸せな思いになれるものに違いない、と思っていた。本気で思っていた。
実際に女の子のおっぱいを初めて舐めた時
『皮膚だ!』
と思った。おっぱいが皮膚だということに驚いた。本来なら、おっぱいが皮膚だということに頭が回っていない自分について驚くべきところだと思うのだが、やはりおっぱいが皮膚だということは驚きに満ち満ちていた。
大学生の頃から風俗に通い、何度も何度も女の人のおっぱいを見ては、とりあえず舐める。自動化されたbotのように、とりあえず舐める。自分がそれを本当に望んでいるか望んでいないかを不問にして、とりあえず舐める。その度に『やっぱ皮膚だよなぁ』と、小さな落胆を繰り返す。それでも、おっぱいがその姿を顕にする度に、毎回毎回、新鮮な驚きがある。『あ、おっぱいだっ!』という驚きがある。ちんこはピクッ、と反応する。
もう自分を取り巻く状況も、自分の考えも、昔とは変わってしまっているのに、あの頃の念力だけが純粋培養されたまま、自分の中に残っているということがある。
おっぱいに関して言えば、それは思春期の頃の僕の念力なのか、それとも、おっぱいが顕になる度にピクッ、と反応するちんこの念力なのか、渾然としている。いや、何でもちんこに責任を擦り付けるのはよくない。ちんこにまんこを擦り付ける素股は最高に素晴らしいが、責任をなすりつけてはダメだ。ちんこにも現在と過去の位相があると考えることができる。もしかしたら今のちんこは、過去のちんこからの念力によってピクッ、と反応しているのかもしれない。現在のちんこも、過去のちんこと闘っているのだ。
ゲームの大量購入は、一度だけ叶えてあげたら過去からの念力は消えたが、おっぱいに関しては未だ留まるところを知らない。
それでも昔の自分の、あるいは昔のちんこの、純粋培養された念力の願いを、できるだけ叶えていってあげたいと思う。