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男の潮吹きの気持ち良さとは

 先日、M性感にいき、男の潮吹きというものをさせてもらった。『潮吹きってあんま気持ちよくないんですよ』という女の子が割といるらしいが、自分も潮吹きは思ったよりも気持ちよいものだとは思わなかった。でも、M性感嬢と潮吹きの気持ち良さについて話が盛り上がったので、書き留めておこうと思う。

 

 以前にも記事で書いたけど、僕が指名しているM性感嬢は、自分でつくった特製の浣腸のことを〝魔法の浣腸〟と言い張る頭メルヘンな方で、この前指名した時には『私は魔女なんですよ』と言い出した。魔法の浣腸の次は魔女。非常に一貫性がある。これからこのブログの中で彼女のことは〝魔女さん〟と呼ぶことにしよう。ここで一つ、M男を目指す前途有望な若者やおじさんに伝えておきたいことがあるのだけど、もしM性感嬢が『私は魔女なの』みたいな変なことを言い出しても、その世界観に積極的にノッていく方がよいです。M性感で働くくらいエロにこだわりを持っている女性は、プレイでも自分の思った通りに進ませたいと思っている方が多い印象があります。プレイの順番や時間配分などはもちろんのこと、自分の世界観の中で行いたいと、口では言わずとも、その一挙手一投足で示しているM性感嬢は多いです。だから、変なことを言ってきたとしても積極的にノッていくのです。M男というのは、何もしない人間のことではありません。何もしていないように見えて、相手の世界観に積極的に身をゆだねていくのがM男の勝負所なのです。

 

 この日は魔女さんとホテルで対面し、まずは問診票を書きました。問診票とは、ドライオーガズムとか亀頭責めとか乳首開発とか、その他もろもろ、今日は何がしたいかとか、今日の排便はどんな感じかとか、したいプレイから身体の調子まで、いろいろ書かされるものです。『じゃあ今日は潮吹きをさせてください』とお願いすると、『潮吹きってね、意外とできないお客さんが多いの。なんていうかな、潮吹きっておしっこみたいな感覚なんだけどさ、人前でおしっこする機会ってなかなかないじゃない?だから潮吹ける状態になっても自分でセーブしちゃって、潮吹けない人が多いんだよね』とのことでした。なるほど、と思いつつ、『まぁとりあえず挑戦してみましょう』というと、『はい!じゃあねぇ、水を飲んでください』と500mlの水を渡されました。潮吹きAV女優は撮影する前に水を大量に飲むといいますが、まさにそれですね。ペットボトルの水を飲みながら話を続けます。すると、話が尽きたところで、『私は魔女なんですよ』とこの時初めて魔女発言をされました。『へ~、魔女ってなにかできるんですか?』と聞き返します。すると、『私は無意識の書き換えができます』と魔女さんは言い出しました。『うん、例えばどういうこと?』と聞き返すと、『う~ん、何か悩みを相談してもらって、その人が悩んでいる時に無意識のうちに自分を抑えてしまっているところを見つけて、そこから解放してあげるって感じかな』とのことでした。24歳素人童貞、残念ながら誰かに相談したいような悩みを1つも持ち合わせていませんでした!これでは話が続かず困った、と思い、数分前にした会話に繋げながら『なるほど~、じゃあ男の人に潮を吹かせるのも無意識の書き換えってことなんだね』と返すと、しばらく考えたのち、頭の上に電球が光ったかのような笑顔になり、『あっ!そうか!そう考えるんだ~!へー!おもしろいねっ!すごい!そうだね!そうだよ~!』と、魔女さんは問診票の空白のところに突然メモを走らせました。あらたな発見はメモっとくらしいです。研究熱心です。24歳素人童貞、なんとか魔女をさらに魔女にさせることに成功したもようです。そんなこんなで、問診票と軽めの会話が終わり、ベッドでプレイをしてもらいました。100分近くにわたるプレイは割愛し、最後射精まで導いてもらった後に、亀頭を軽く円を描くように優しく触れられ、軽々と男の潮吹きまで持っていってもらいました。そして私の方もなんの躊躇もなく、簡単に潮吹きを成功させてしまいました。潮吹きがどんな感じだったかと言えば、確かに排尿の感覚に近く、排尿よりも少しだけ気持ちいいくらいかもしれません。少しだけ違う点があるとすれば、排尿はかなり意識的にするのに比べて、潮吹きというのは勝手に出てしまうとまでは言わずとも、少しだけ自分のコントロールとは離れたレベルで起こるということくらいでした。

 

 もしかしたら身体的レベルで男の潮吹きが気持ちいいという人もいるかもしれないけど、潮吹きの気持ち良さというのはどちらかと言えば精神的なものなのではないかと思う。魔女さんが言った通り、確かに普通の人はいつもおしっこをしない場所でおしっこをするのに躊躇してしまう。ズボンとパンツを履いたままおしっこができるか試してみればすぐわかることだと思うけど、普段したことがないシチュエーションでおしっこをしようと思うと、身体が勝手に押しとどめてしまう。たぶん潮吹きの気持ちよさっていうのは、この自分の身体に蓄積されている習慣というものをぶっ壊すところにあると思う。人前で排尿をしたことがない人が、いきなり人前で排尿するのは難しい。特に排尿は意識的にしなければならない分、習慣の力をぶち壊す強い意志がなければできない。しかし潮吹きならば、排尿よりも意識的なコントロールを離れている分、自分の意図を超えて、人前で潮を吹いてしまうこともできる。潮吹きの気持ちよさっていうのは、そういうとこにあるのではないかと思う。だから人前でおしっこをしてはいけないと身体が強く躊躇してしまう人ほど、潮吹きが成功した時は気持ちいいんじゃないかなぁ。

 

 プレイが終わってシャワーを浴びて、しばらく魔女さんとこの日のプレイの反省会。

『心配することなかったね、潮吹き簡単にできたね!』

『うん。ていうかさ、僕、中学生の頃までオネショしてたし、別に人前で排尿するのとかも全然躊躇ないんだよね。』

『そうなんだ~!私も小学校高学年くらいまでオネショしてたんだよね~!』

 

 

 たぶん僕は人前で排尿することの躊躇が無い分、あまり潮吹きを気持ちいいとは思えなかったのではないかと思う。っていうか、たぶん僕はどちらかと言えば、魔女さん側の人間なのではないか、とか最後の反省会で思ったりもした。

 

 

shirotodotei.hatenablog.com

祖母さんが亡くなって半年

 祖母さんが亡くなって半年が経った。

 といっても、別に悲しみにふけっていたわけでもなく、この半年も普通に私は生きていた。

 

 祖母さんは僕が小学3年生くらいの時に半身不随になった。ある日朝起きると、母親が『ちょっとお母さん!どうしたの!』と朝から大きな声を上げ、祖母さんの部屋に走っていった。祖母さんはベッドから落ちていたようで、起き上がれなくなっているようだった。確かその時は64歳くらい。

 家の中が慌ただしかったけれど、学校に行かなければならないので学校に向かった。自分の家の方に向かう救急車と登校中にすれ違い、なんだか大変なことになっているなぁ、とは思った。

 その後のことはあまり覚えていないけど、確かしばらく入院して祖母さんは実家に戻ってきた。脳梗塞だったらしい。左半身は完全に動かなくなってしまっていて、車いす生活になっていた。

 

 祖母さんは半身不随になる前は本の配達を行っていて、60歳を超えているにも関わらずバリバリの肉体労働、そして夜な夜な橙色の電球が光る暗い部屋で、一人で黙々と会計業務もしていた。小学生の僕からすれば祖母さんはとても理知的でパワフルな人間に見えていた。僕が両親と喧嘩をした時も、祖母さんの部屋に逃げ込めば優しく相手をしてくれ、祖母さんは家族の中でもどこか逃げ場所のような存在であった。

 

 割と自分はおばあちゃんっ子だったので、慕っていた祖母さんが突然、日常生活もままならなくなってしまっている現実と直面するのには辛いものがあった。今であればそんなにショックを受けることでもないけど、小さい頃だから、まぁ仕方がない。

 

 そしてもっとショックを受けたことがあった。確か小学5年生くらいのお正月。祖母さんのベッドの上で一緒にボードゲームをしていたら、祖母さんが何の前触れもなく小便のお漏らしをしてしまった。ベッドのシーツがじわじわと濡れていった。僕はなんだかそれがもの凄くショックで、その頃から祖母さんのことを少しだけ軽蔑するようになってしまった。自分も小学5年生のくせに頻繁にオネショをしていたのに、勝手なもんである。

 

 そんでその頃からもう前兆はあったのだけど、祖母さんはどんどんどんどんボケていってしまった。母親が病院に連れて行ったら、認知症と認定されてしまった。脳梗塞から半身不随で認知症というのは、あるあるなパターンらしい。とは言っても最初は少し話が通じなくなったり勘違いが多い程度。でもだんだんだんだんと症状はひどくなっていって。僕が高校生の時に、家に帰ったら救急車とパトカーがたくさん家の前に止まっていて、僕が家の屋根の上に登って消えてしまったのを警察官も消防士も探していた、ということだ。一体何を言っているのかという感じだが、幻覚か何かが見えて110番と119番に祖母さんがそう電話をしてしまっていたのだ。母親はどうしようもない事態に情けなくなって泣いていた。僕は割と非日常が好きなので、また面白いことが起こったなぁ、くらいに思っていた。

 

 だんだん祖母さんは幻聴や幻覚も見えてきて、最終的には念仏を唱えたり神についてよく語るようになった。それでも最後まで家族の名前は憶えていて不思議なものだったのだけど、とうとう家族の名前まで忘れる日もやってきた。

 

 初めて自分の名前を忘れられた日はなかなかショックであった。面と向かって『誰だっけ』ってニコニコしながら言われてしまい、なぜか接し方も他人行儀。さすがに高校2年生くらいだったのでその場で泣いたりはしなかったが、自室で一人ぐすんぐすん泣いたりはした。まぁ高校生と言っても世を知らない子供なので、自分が泣いている理由も特にわからないわけよ。でもなんだか不安とも驚きともショックとも言えない何かしらの動揺があって、とりあえず泣いた。

 

 大学でそこそこ真面目にお勉強をして卒業した今にしてみればよ、あの時に悲しくなったのは、自分のアイデンティティの大きな一部が喪失してしまったからだ、なんてことを考えることもできるわけ。人間は『父親からみた私』とか『友達からみた私』とか『先生からみた私』とか『後輩からみた私』とか、いろんな『私』を生きているわけで。これが普段は当たり前すぎて気づかないけど、そういう風に生きているわけ。祖母さんの記憶から自分がいなくなってしまったということは、小さいころから慕っていた『祖母さんからみた私』が無くなってしまったということでもあるのさ。そりゃあ悲しくもなるわけですよ。

 

 綺麗なところだけ切り取れば認知症の祖母さんとの経験からそんな教訓も得られるわけだけど、実際はさ、認知症で日常生活も満足にできず、時にはパトカーも救急車も呼んでしまって、日ごろは念仏と神について語る祖母さんが家にいると、家族のみんながイライライライラするわけ。だから亡くなる直前の6~7年はもう老人ホームに完全に預けっきりで、母親が1か月に1~2回会いに行っていたくらいだった。自分は大学生だったので、実家に帰省した時に会いに行く程度で、1年に2~3回しか祖母さんとは会わなくなっていたよ。老人ホームに踏み切ったことで家族のみんなのイライラもかなり解消されていたよ。

 

  そんなこんなで祖母さんは半年前のとても晴れた日の早朝に亡くなってしまったわけです。葬式の時に胡散臭いお坊さんが定型文のように『〇〇様は亡くなられましたが、これからも皆様の中で生き続けます』みたいなことを言っていたけどさ、そんなこと言われなくてもこっちは痛感しているわけですよ。祖母さんの記憶から自分が無くなって『祖母さんからみた私』が失われて悲しいという話をしたけども、その時に悲しい思いをするためにはもう一つ条件があって、『私からみた祖母さん』が存続していなければ悲しくもならないわけです。『祖母さんからみた私』は失われているのに自分の方には『私からみた祖母さん』がありありと存続していて、そのギャップが悲しかったんですわ~。というわけで、お坊さんに『これからも皆様の中で生き続けます!』なんて言われなくても、そんなの知ってるわ~!って感じでした。まじでお坊さんのいうことはただの綺麗ごとだと思っていたけども、まぁ一理も二理もあるということですね。お坊さんに言われただけじゃ納得はしなかっただろうけどね。

 

 そんでさ、さいきん社会人になった私はとても忙しいわけですよ。仕事辛い~死にたい~とかいう気持ちはもちろん湧いてくるわけで。そんな気持ちが高じてなのか、食事も排泄も適当になったりするわけ。自分は精神的に生きる気力がないのに身体の方はいつもと変わらず生きる方向に動いていて、そういうのうざったいなぁ~ってなるから、腹いせに食事とか排泄を適当にしちゃうわけ。なんかもう小便をしても水で流さないとかしてしまうわけですよ。さすがに2回、最高でも3回目でいつもは流すんだけど、先々週あたりはまじで疲れてしまって、たぶん5回くらい流さないままにしてしまったわけですよ。正社員に成り立てで貧乏なのに地価の高い都内に住んでいる私の部屋はもちろんワンルーム。そんであるとき突然、自分の部屋に異臭が漂っていることに気づくんだよね。でもすぐに尿の匂いとは気づかないわけ。別にトイレで小便を流さないのは意識的にやっているわけでもなかったから、本当に気づかないんだ。んでしばらく臭いな~臭いな~と思って生活して、トイレに行ってやっと気づいたんだよね。あぁ、臭いの元はこれか…って。そんでその時にめちゃくちゃ祖母さんのこと思い出した~!祖母さんはさぁ、半身不随になってから歩いてトイレに行くこともデンジャラスな世界観になってしまったから、簡易式トイレをベッドの横に常備していたのね。んでしばらく排泄物が溜まってから家族の誰かがトイレに流しにいくようなシステムになっていたんだけどさ、簡易式トイレに排泄物が溜まっていくとね、リビングがだんだんだんだんアンモニア臭に包まれてきてさぁ、なんか軽く湿度も上がっているような気もしてきて、すごい気怠い気分になるんだよね。臭いし。中学高校の頃はず~っと、そんな独特の気怠さが漂うリビングで生活をしていてさ~。先々週、小便を溜めてしまって臭くなったワンルームも、全く同じ匂いが漂ってきたんですよね~。うわ~、久しぶりだ~って。まさかここで祖母さん来るんかぁ~、って思ったんだけど、普通に一瞬で水で流しますよね。さすがに臭いのは嫌だから。いつもはジュゴ~ッって鳴る水を流す音も、祖゛母゛~っって聞こえるくらいには祖母さん感があったんですよ~そん時は。こんなところで祖母さんと遭遇するとは本当にまさかまさかといった感じで。予想もしていないところで出会うんですね~、地雷みたいに。いやぁ、今は見えないだけで、まだまだ祖母さんはこの世界のどこかに埋まっているんでしょうね~。今度はいつ踏むかな~って割と楽しみでもあるけど、そういうのはたぶんまた忘れたころに踏むんでしょうね~。

 

 

 

 

 

 

 

kaku-butsuガールズコレクションに行ってきまして

 ソフトオンデマンドが運営するkaku-butsu(ソフトオンデマンドの中の風俗部って感じなんですかね)が主催するガールズコレクションが昨日開催されたので、行ってきました。

 

  会場はなにやらとてもおしゃれなところでした。

 

 年に1度の一大イベントらしく、今回が2度目の開催だそうです。

 イベントのメインは、約60人の風俗嬢が本物のガールズコレクションばりにランウェイを歩き、最後に決めポーズ…ではなく、下から強風を送られ、スカートがめくれてパンツやお尻が丸見えになって帰っていくという、非常に文化的なお遊びです。広告にある感じですね↓

 

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 事前に選出される風俗嬢の投票などもありました。webからはクリックで1票投票。ソフトオンデマンドに持参か郵送で遊んだ女の子の領収書をもっていけば料金分の投票(2万円だったら2万票)の投票ができるという、AKBよりも財布に優しいシステム。

 

 ってな感じで、風俗嬢をアイドルのように、あるいはモデルのように扱ってしまうというのがこのイベントの面白さではありますが、そんなことに興味のない洒落っ気のない風俗客おじさん達にとっても、たくさんの風俗嬢をパネルマジックや写メ日記の修正無しに見ることができるという最高のイベントなのであります(むしろこっちが本願か)

 

 会場に入ったら、この日出演する風俗嬢全員のパネル写真が掲載されている1枚のチラシと、青い小さな丸いシールが4つほど配られました。今日実際に風俗嬢を見てみて、気に入った女の子のところにシールを貼ってくださいという運営サイドからの粋な計らいだそうです。渡された時はあまりの単純さに『いやいや、小学生がやることかよ』という感想を思わず抱いてしまいましたが、イベントの終わり頃には『おい!シールが足りねぇぞ!!!』と、内心ドはまりしていたことは内緒にしておきます。

 

 ランウェイを歩く風俗嬢はチラシの順番に出てきたので、『お、次はこの子が出てくるな』と手元の宣材写真を見ておき、実際に歩いて出てきた風俗嬢を見ては、また手元の宣材写真を見直すという、この繰り返し運動が個人的にはめちゃくちゃ楽しかったです。

 もちろんタイプの子がいれば『次入ってみよう』と思えるというお役立ち感もあるのですが、それよりも、宣材写真と現実の風俗嬢を見比べるという動きそのものを面白がっている自分がいることに気づきました。これはね、ボルタリングジムのような感覚ですよ。風俗に行く際、パネル写真やらお店の紹介文やら写メ日記やらを必死に読み込んで指名する女の子を決めるわけですが、これは険しい山を登っていくように辛いことです。ボルタリングジムというのは、険しい山を登る肝の部分だけを切り取って短いスパンで繰り返し行っていくところですが、風俗嬢の宣材写真と実際の風俗嬢を見比べる動きを短いスパンで繰り返すというのは、ボルタリングジムで遊んでいる時のような楽しさがありました。

 

 投票のランキングでトップ10の女の子たちが最後ランウェイを歩いたのですが、トップ10ともなると芸能人にいそうなレベルに美しい女性が多く、とても驚くと共に、風俗に行くモチベーションが最高に高まりました。

 

 個人的に面白かったのは、女の子のスカートが風でめくりあげられてお尻が現れた時に、大きな歓声の上がるお尻と歓声の全く上がらないお尻があったこと。もちろん、綺麗なお尻だと歓声があがるんだけど、どうも理由はそれだけではなさそうだった。風が送られた時に恥ずかしそうにしているかと思わず歓声をあげちゃうとか、恥ずかしがり方があざといとちょっと観客がうろたえるとか、むしろ自分から積極的に露出するわかりやすさがあると声が上げやすいとか、何か法則があるようでないような。理由はわからないけど、歓声のあがるお尻と歓声のあがらないお尻があったのだ!歓声のあがらなかったお尻はかわいそうですね。とりあえず唯一のニューハーフの方のお尻が断トツで綺麗で驚きました。

 

 その後は岩清水大河編集長さんが風俗嬢の方々をいじってパフォーマンスをさせたり人柄を引き出してたり、風俗嬢の方が一堂に観客の近くに押し寄せてきて割引券を配りまくったりと、楽しくてお得なイベントでした。岩清水大河編集長さんすごい面白い方でした。

 

 個人的には最後帰るときに無料の性病検査キットが配ってもらえてラッキー。

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 とりあえずいろいろな風俗嬢を知れるというだけでコスパ最高であるし、風俗イベントにありがちな闇に突き進んでいってしまいそうなアングラ感も全くなく、健全で普通に良いイベントだったので、風俗に通ってるうちは毎年参加していきたい。

 

 

 

120分

 最近、M性感やらメンズエステやら、手に職を持っている女性が働いている風俗に遊びにいくようになってきた。新人を指名するとき以外は、120分前後の時間で入るようにしている。というのも、高い技術を持っていて、その上サービス精神旺盛な女性にとって、60分くらいの時間で入られてもサービスの時間が短すぎて十分にサービスできないという気持ちになるからである(らしい)。

 3か月くらい前、とあるM性感の女性を指名した。60分で入った。すると、開口一番
『今日はご指名ありがとうございます。っていうか、60分じゃ何もできないからーっ!笑』
と言われ、そういうもんなのか、と初めて知った。
『私のブログ読みましたか?最低でも120分で入ってくださいー!きゃはは!』
とも言われ、その日は軽い面談と、浣腸打って10分ほど攻められただけで終わった。特にイキもしなかった。
『あとオナ禁は必須だから!若い子は2週間はオナ禁してほしいな!』
これで2万円。つい最近まで無職だった若造には高い授業料だ。

 というかブログは読んでくることが前提だったのか。どれだけハードルが高いんだ、と思ったが、そこはM男。ちょっと理不尽なハードルを課されるのには嬉しいものがある。生活にハリが生まれる。

 実際にブログを読んでみると、確かに指名の条件が書いてあった。120分って書いてあった。オナ禁もすごい推奨されてた。風俗嬢のブログなんてお客さんへのお礼か、snowで撮った写真か、今日食べたご飯の話が書いてあると思っていた。私の認識が甘かった。他にも手に職持ってる系風俗嬢のブログを覗きこむと、オーガズムの研究などの有用な情報がたくさん載っているし、指名するための条件も書かれていたりするものもある。そんな世界が広がっていただなんて。

 2週間オナ禁してまた行こうかな、と思ったが、これが続かない。オナ禁すると仕事の勉強が全くできなくなる。そういえば私は中学の頃から勉強する前に一発抜いてからじゃないと勉強できないタイプだった。勉強漬けの新入社員にはこれは厳しい。
 いや、なにより件のM性感嬢に対する信用がなかった。それは彼女が悪いというわけではなく、ネットにはあまりにも風俗の情報が散乱しすぎていて、他に技術も高く素晴らしい女性がたくさんいる(ように見える)からだ。わざわざ苦労して1人の女性と関係を築くより、関係を築かなくても最高の技術で気持ちよくさせてくれる女性がどこかにいるのではないか!?そんな夢がネットにはあるように見えてしまう。ってか多分ある。そんなんだからオナ禁なんて続かない。

 その間、ほかの風俗にも行く。他のM性感に行ってみたり、メンズエステに行ってみたり。もちろん、技術力がありそうでサービス精神が旺盛そうな女性を指名する。得たばかりの知識で、120分前後の時間で指名する。そんでやってほしいオプションもつける。確かに120分あると、『あれやって、これやって』って、こっちもやってほしいことが気軽に言えるし、なにより女性の方もすごい心に余裕をもってサービスをしてくれる感がある。会話もゆっくりたくさんできていろんな話も聞ける。やっぱ120分くらいはいい時間なのかもしれない。

  一度、とあるM性感で50分で入ってみたら、めちゃくちゃ優しくてサービス精神が旺盛な女性が出てきたのであるが、いろいろ考え事をしているのか、眉間に頻繁に皺が寄って、会話をしてもどこか上の空。というか、たぶん残りの時間でどのくらいのサービスができるのかで頭がいっぱいいっぱいになっている感じだった。あまりに頑張っている感が伝わってきてしまうので、『こんなに頑張ってくれるから僕ちんもしっかり射精をしなければならないっ!』みたいに、こちらにも変な使命感が湧いてきてしまう。こういうのが湧いてくる時に限って射精はしにくくなる。結局いろんなサービスを浅く広く受けた末に、『やばいっ!もうすぐ時間だ!手コキ!手コキ!』みたいなノリで、せわしない手コキで発射をすることになった。

 やっぱり120分くらいがいいらしい。あのM性感嬢が言っていたことは一理あったのだ。いや、二理も三理もあるかもしれない。少しそのM性感嬢に対する信頼感が増したので、オナ禁を真剣に始めてみた。筋トレの器具を購入し、毎日オナニーをする気力がなくなるくらいに筋トレをした。なんとか1週間のオナ禁に成功したが、その週の仕事は恐ろしいくらいに壊滅的だった。なんも頭が働かない。そんでいつの間にかちょっとマッチョになったりもしていた。次の週は仕事でなぜか難しいプレゼンを任されてしまい、猛烈に勉強をしなければならない週なので、これ以上のオナ禁は無理だと判断し、1週間のオナ禁で件のM性感嬢に会いに行った。もちろん120分。300記事くらいあるブログの記事も全て事前に読んでおいた。

オナ禁はしてきたの?』

『1週間ね』

『いいね!自分のオナ禁がどれくらいがいいか勉強してみるといいよ。今日は1週間だから、今度は2週間とか1か月とか。いろいろ試してみるといいよ』

『うむ』

と、また二理も三理もあるような会話をした。

『ってか前より筋肉ついてない!?』

 あんたのせいや。

 120分ふんだんにサービスをしてもらった。乳首の開発とドライオーガズムと潮吹きなど、要望したものがあれよあれよという感じでクリアされていった。やっぱすごい人じゃないか。この人が言うことにはなかなか信頼がおける。

 攻められている最中ずっとアイマスクをしていた。私は自分の意識を飛ばすには妄想の力が不可欠であり、視覚情報は完全になくしてもらった方がいいからだ。はじめの軽い興奮の間は、頭の中に浮かんでくる複数の妄想の中を渡り歩いている感じがある。私の妄想の性質上、現実で出会ったことがある人でしか妄想ができない。だから、ほとんどは学生時代の同級生か風俗嬢である。いや、もはやほとんど風俗嬢である。前立腺や乳首を刺激され、興奮が増してくると、それに比例するように妄想も洗練化されていって、複数の妄想の中からどれか1つの妄想の選択を決断し、その世界に入り込まざるを得ない状況になってくる。それは、自分がある1つの妄想を積極的に決断していくというよりかは、刺激が追い求める方向に勝手に決断されていくというような感覚。だから自分でも自分が何を選択するのか半ばわからないのだけれど、私の頭が最後に選択した妄想に登場してきたのは、50分で指名され、どのサービスをどれくらいやろうか考えることで頭がいっぱいいっぱいな、あのM性感嬢の眉間に皺の寄った表情であった。

 

 

 

M性感嬢に『すごく綺麗な仁王立ちだね』と言われた話

 最近、仁王立ちをしたことはあるでしょうか?

 ある、と瞬時に応えることのできる人は、おそらく少ないでしょう。私もつい先ほど、M性感嬢に『すごく綺麗な仁王立ちだね』と言われ、自分がこれまでの人生で仁王立ちをする機会が全く無かったことに気づいたのだ。

 

 〝仁王立ち〟と聞くと、男らしく、キリッとしていて、すごく気合いの入っている佇まいのイメージがある。しかし、私がM性感嬢に『すごく綺麗な仁王立ちだね』と言われたのは、プレイ前のシャワー中での出来事であった。もちろん、シャワーが終わればベッドでたくさん攻めてもらうので、シャワーの時というのは気合いが入っているタイミングと言えばそうなのだが、別に気合いが入っていたから仁王立ちをしたのではない。M性感なので当然、シャワータイムにお尻の穴を洗われるわけであるが、その際にM性感嬢が私のお尻の穴を洗いやすいようにと、両足を肩幅よりも少しだけ大きく広げただけなのだ。その姿を見て、M性感嬢は『すごく綺麗な仁王立ちだね』と呟いた。

 

 仁王立ちの〝仁王〟とは、法隆寺東大寺など、寺院の入口の門の左右に建てられている金剛力士像のことであり、原則的に阿形吽形の一対で造像されることから〝二王〟とも呼び慕われている。

 

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 向かって左、口を大きく開けて怒りの表情を顕にしているのが阿形像であり、向かって右、口をビシッと引き締め怒りを内に秘めた表情をしているのが吽形像である。これら仁王(二王)の力強い佇まいこそが〝仁王立ち〟なのだ。

 

  ここで既に、1つの問いが生じてしまっている。

シャワー中に仁王立ちをした私は阿形だったのか?それとも、吽形だったのか?

   オーストリア精神科医で心理学者でもあるヴィクトール・E・フランクルは、その著書『夜と霧(Nacht und Nebel)』の中で次のように述べている。

 

Wir müssen lernen und die verzweifelnden Menschen lehren, daß es eigentlich nie und nimmer darauf ankommt, was wir vom Leben noch zu erwarten haben, vielmehr lediglich darauf: was das Leben von uns erwartet! Zünftig philosophisch gesprochen könnte man sagen, daß es hier also um eine Art kopernikanische Wende geht, so zwar, daß wir nicht mehr einfach nach dem Sinn des Lebens fragen, sondern daß wir uns selbst als die Befragten erleben, als diejenigen, an die das Leben täglich und stündlich Fragen stellt 
 
私たちが学ばなければならず、また絶望している人たちに教えなければならないのは次のことであります。すなわち、私たちが人生に何を期待すべきかなどということは決して問題ではありません。そうではなく単に、人生が我々に何を期待するかということだけが問題なのであります。 これはひとつのコペルニクス的転回です。すなわち、私たちは人生の意味のほうに向かって問いを立てるということをもうやめてしまうのであって、そのかわり、自分自身のことを人生から問いを問われた者として捉え直すのです。そのようにして問いを問われた者の上へと、人生は毎日毎時、問いを立てかけてくるのであります。

 

  まさに、このような意味において、私も人生の方から意味を問われてしまっているのだ。M性感嬢が私のお尻の穴を洗いやすいように両足を広げた、などという私の人生に対する期待などとは無関係に、『すごく綺麗な仁王立ちだね』と言われた時、その問いは人生の方からやってきたのだ。すなわち、お前は阿形なのか、吽形なのか?

 

  フランクルは、先ほどの引用文の続きの中で『人生から期待されている問いに我々は応えなければならないのであるが、正しい応えは、沈黙やおしゃべりによってではなく、ひとつの行為によって、ひとつの正しい態度によってなされるのである。』と述べる。私の本日のM性感でのプレイ態度を振り返ってみれば、自ずとその問いの応えも見つかるはずだ。

 

 シャワーを終え、ベッドで四つん這いになるように指示された私は、思いっきり四つん這いになった。M性感嬢から魔法の浣腸(コーヒーとお酒を掛け合わせた浣腸)を注入され、臓器に馴染ませる。魔法の浣腸はカフェインの力で前立腺アルコールの力で全身を敏感にすることができるものらしい。ちょっと文中に線が入って見にくい点があったかもしれないが、それは、この浣腸をどうしても〝魔法の浣腸〟と言い張るM性感嬢の気持ちを汲み取ってのことだ。気にしないでくれ。

 

 次はベッドに仰向けに寝るように指示されたので、言われるがままに仰向けに寝る。すると、M性感嬢が指サックとローションをつけた指をおもむろにアナルに突っ込んだ。アナルは大きく口を開く。普段は締まりきっているせいか、口を開いたところで口回りの表情は相も変わらずしわくちゃで、アナルは怒ったような不機嫌な表情を覗かせている。口を大きく開け怒りを顕わにするアナル。。。そう、この表情、まさに阿形だ!

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 仁王立ちをした私の正体は阿形だったということなのか?いやいや、そう断定するのはまだ早い。我々はまだ慎重にプレイを続けなければならない。

 

 阿形(アナル)に指を突っ込まれる。この日は、プレイ前の問診票でドライオーガズムを目指すことを提案しておいた。ドライオーガズムというのは、前立腺を刺激することでドライ(体液の発射なし)にイクことである。阿形(アナル)から指を突っ込み、直腸越しに前立腺を刺激される。前立腺は刺激されることによって収縮し、興奮を生み出す。その表情は外部から確認することはできないが、収縮するということは、恐らくこんな表情をしているに違いない。

 

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そう、吽形だ!

 

 前立腺刺激とは、まさに阿形(アナル)吽形(前立腺の合わせ技、俗にいうところの〝阿吽の呼吸〟によって成り立っているのだ。

 

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 ここでいう〝阿吽の呼吸〟の〝呼吸〟とは、おそらくオナラのことだろう。アナルに指突っ込まれてると、たまにプップップップッめっちゃ鳴る時あるからね。

 

 阿形〝阿〟サンスクリット語で始まりの音であり、吽形の〝吽〟は終わりの音である。英語で言うところの〝A〟と〝Z〟の関係だ。〝〟は「宇宙の始まり」という意味を持ち、〝吽〟は「宇宙の終わり、涅槃」という意味をもつ。〝〟と〝吽〟の間には広大な宇宙が広がっているというのがサンスクリット語の教えである。

 

 阿形(アナル)から指を突っ込まれ、吽形(前立腺を刺激された私の身体に、興奮の波が訪れる。この興奮の波は、自分の身体の内にある前立腺によって引き起こされているにも関わらず、自分の身体の外側からやってきた波に襲われるかのような感覚を受ける。それに加え、前立腺から引き起こされるこの波というものは見事なまでに自分の思い通りにならない。興奮が高まってきたので、いよっしゃ!このままいくぞ~!と気合いを入れると、さっきまでの大きな波が嘘のように引いてしまったり、全く気持ちよくないから脱力していると突然大きな波がやってきたりする。自分の内側にあるにも関わらず、自分の内側にはないような性格をもつのが前立腺の特徴だ。

 また、同時に逆の動きも生ずる。前立腺の刺激により身体が興奮状態になると、魔法の浣腸の力も相まって、恐ろしいくらいに神経が敏感になる。ラブホテルでプレイをしていると、下の階から人が上がってくる足音が手に取るように感じられ「1...,2...,3...,4...,5...,6段階段を上り、1...,2...,3...,4歩進んで、ガチャッ、ドアを開けた」というように、今度は自分の内側の範囲が外にまで拡張し、まるで文字通り自分がラブホテルの一部になったかのような身体感覚になる。

 自分の内側にあるはずのものが外側にあるように感じられ、自分の外側にあるものが自分の内側であるように感じられる。オプションのアイマスクをつけて視覚情報をシャットダウンした日には、内と外の境界なんぞ完全にわけのわからないことになってしまう。

 

   宮沢賢治の作品に『銀河鉄道の夜』という童話がある。この作品は、学校の教室で『宇宙に光る銀河は1つ1つの星から成り立っていて、私たちの住む地球もその中の1つの星であります』と、先生が授業をしているシーンから始まる。ある日、主人公のジョパンニが丘の上から、銀河の上を走る列車を眺めていると『銀河ステーション、銀河ステーション』と、どこからともなくアナウンスが聞こえ、ジョパンニはいつの間にか、自分が眺めていたはずの列車の中にいる。宇宙に輝く銀河を眺めている際の起点となっていた地球もまた銀河の一部を形成しているように、私たち自身もまた眺めているもの(列車)の一部を形成しているという、その視座の転換、あるいは、〝ここにいる私〟という特定の視座の固定性から解放された認識のあり方こそが、宮沢賢治の描いた〝宇宙〟であった。

 

  前立腺刺激が教えてくれるのは、宮沢賢治的な意味での〝宇宙〟だ。私の身体の中にある前立腺は私の外部の一部であるし、ラブホテルを眺めている私はラブホテルの一部でもある。

 

   前立腺刺激による長い宇宙の旅の中、意識も朦朧となり、身体の自由も失われた頃、涅槃(ドライオーガズム)が訪れる。 

 

その際、

 

『阿っ、阿〜んっ。やばっ、阿っ阿っ、阿〜んっ♡』

 

と、思わず声を上げてしまうので、『すごく綺麗な仁王立ちだね』とM性感嬢に言わせしめたあの仁王立ちの正体は、どうしたって阿形なのである。

 

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夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

 

 

 

 

この世界の誰もが素人童貞になれる魔法の思考術

素人童貞とは?

 素人童貞のことを知らない人もいると思うので、まずは「素人童貞」とは何か、というところから考えてみよう。「童貞」というのは誰もが知っているように、性行為の経験がない男性のことを指し示す言葉だ。その「童貞」の上に「素人」がくっつくと、素人を相手にした性行為の経験がない、つまり、プロを相手にした性行為の経験しかない男性のことを意味する「素人童貞」という意味の言葉ができるのだ。

 

素人童貞という言葉の成り立ち

日本の童貞 (河出文庫)

日本の童貞 (河出文庫)

 

 

 社会学者の澁谷知美さんの著書『日本の童貞』によれば、「素人童貞」という言葉は、1983年(昭和58年)の雑誌『月刊プレイボーイ3月号』で「プロの女性としかイタしておらぬ仮性オトコ」と定義されて出てきたのが初出であるらしい。性風俗店で働いている風俗嬢以外の女性との性行為の経験がない男性に対して蔑んで用いる言葉で、1980年代末頃から定着してきた言葉だそうだ。しかし、実際には「素人童貞」という言葉なんて根付いているだろうか?

 私は「素人童貞」という用語のエゴサーチを日課にしているが、「素人童貞」という言葉を知らない人や、「童貞の中でも素人と玄人の序列があるのか!」みたいに間違って「素人童貞」という言葉を捉えている人間が数多くいるのが現状だ。しかし、これには仕方のない部分もある。「素人童貞」という言葉は、実のところ意味が曖昧だからだ。

 少しでも「素人童貞」という言葉について考えたことがある人ならば、すぐこの問いに行き着くはずだ。

「風俗嬢じゃなくて援助交際でSEXした人も素人童貞なのか?」

「風俗で挿入はしなかったけど、素股とかした人は素人童貞なのか?」

 厳密に考えれ考えるほど、「素人童貞」という言葉の曖昧さにただただ打ちひしがれてしまう。それに、よくよく考えてみてほしい。そんなに厳密に考えることだろうか。そんなことはないだろう。いや、むしろ厳密に考えるべきではない、と言うべきだろうか。我々の住む世界は「素人童貞」という概念が誕生した1980年代から30年も進んでいる。取り巻く環境が既に変わってきてしまっているのだ。

 

童貞」概念の広がり

 「素人童貞」という概念は、当然、「童貞」という概念を前提にしている。「素人童貞」を考えるために「童貞」という概念について考えてみよう。

 

 「なんかお前童貞くさいなぁ」

 「お前童貞脳だなぁ~」

 

 2010年代の今の世界に住む私たちは、日常的にこんな会話をする。自覚的であろうが無自覚的であろうが、誰かが童貞かそうでないかを、実のところ性行為をしたことがあるかどうかでは判断していない。性行為どころか、その人の考え方や話し方、もっと言ってしまえばその人の人間性で、童貞っぽいかそうでないかを判断しているのが現代人だ。

D.T.

D.T.

 

  そのように、童貞かどうかの基準を人間性にまで拡張した先駆的な書物と言えば、みうらじゅん伊集院光の「D.T.」である。この本が出版されたのは2002年だ。それから10年以上、「童貞っぽい性格」や「童貞脳」という表現は、日常会話でも見られるようになった。もはや、性行為の経験がある者もない者も、人間性で童貞かどうかを判断される世界だ。変わってきている。私たちを取り巻く世界は確かに変わってきている。このように「童貞」の概念の意味が変わって来ているのならば、それを前提としている「素人童貞」の概念の意味するところも変わってこざるを得ない。そして、その言葉の意味の移り変わりによって、素晴らしい世界が広がる。誰しもが「素人童貞」になれる可能性のある世界だ。

 

僕は誰しもが素人童貞になれることを証明しようと思う

 誰しもが素人童貞になれる世界?そんな世界はあるだろうか。ある。それを証明するために、まずは人間の記憶の話をしよう。そうだな、まずは日本人の記憶の集大成でもある日本史の話から始めよう。少しだけ、個人的な経験を聞いていただきたい。

 私は中学・高校と、日本史の勉強が嫌いで嫌いで仕方がなかった。本当かどうかわからないことを歴史的事実として教えられるという嘘くさい感じが嫌だったのだ。例えば私が高校生の頃、鎌倉幕府成立の年号が1192年ではなく実は1185年ということがわかった。さんざん「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府!」とか言っておいて、それが間違っていたのだ。歴史的事実なんて所詮その程度のもの。あまりの意味のなさに私は更に歴史を勉強しなくなってしまった。

 

「歴史=事実」という考え方がピュアすぎた

 しかし、大学で勉強する中で、自分の考えがあまりにもピュアすぎたことが判明した。「歴史なんて本当かどうかわからないじゃないか!」と反発していた自分こそ、「歴史=確固たる事実」という考え方に最も囚われていた存在だったのだ。大学で出会った頭の良い人間は最初からそんな考え方などしていなかった。ではそのような人たちは歴史をどう捉えていただろうか? 

 例えばイギリスの歴史家E・H・カーの著書「歴史とは何か」にその考え方の答えが書かれている。

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

 

  カーによれば、「歴史」の定義は以下のようになる。

 

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。

  

 歴史とは、現在と過去の尽きることを知らぬ対話!まさにこれである。今まで教えられていた「鎌倉幕府が1192年に開かれた」というのは厳密に言い換えるならば、「鎌倉幕府が1192年に開かれたという資料が今のところ有力とされている」という意味であり、それは歴史家が過去と対話している最中ということなのだ。そのように考えれば「鎌倉幕府が開かれたのは1185年になりました」というのは、「鎌倉幕府が開かれたのは1185年だという資料が新たに発見された」という意味なのであり、歴史家と過去の対話が一歩進んだということだ。確固たる歴史的事実が眠っていてそれを〝発見〟して終わりなのではなく、一番有力な、一番妥当な歴史的事実を不断に探究し、過去と対話し続けていくこと。これこそが「歴史」なのである。そのような態度でいれば、「なんだよ!今まで教えられてたのは嘘だったじゃないか!」なーんて昔の私のようにナイーブになる必要もない。新しく歴史が塗り替えられたならば「おー、研究が進歩したのか」と素直に感心すればよいのだ。それが「歴史」を現在と過去との対話としてみる態度ということだ。

 

それぞれの人間の個人史も同じ

 頭の悪い私にとっては「歴史とは何か」という問題は大問題だったのだが、よくよく考えてみればこれは当たり前のことだ。さっきまでは集団の記憶である「歴史」について考えてきたが、普通に個人的な記憶について考えてみればよい。

 例えば高校生の頃に何か勉強や運動が得意で、「お前は超高校生級だ!」なんて周りの大人にチヤホヤされている状況を思い浮かべてみるとよい。そんなことを周りの大人から言われれば、高校生くらいなら「俺は超高校生級だ!」なんて思ったりするのが普通である。しかし全国大会などに出場して、自分より格上の高校生がうじゃうじゃいる現実を知った時、「俺は超高校生級なんかじゃなかった!ただの高校生じゃないか!」なんて挫折したり絶望を味わったりすることもある。自分が普通の高校生級なのか、超高校生級なのか、それはどこかに確固たる事実が存在して〝発見〟されるようなものではなく、「歴史」と同じように、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話の中で探究され続けていくものなのだ。現在の状況が変われば、過去に「超高校生級」だった自分も「普通の高校生」に変わってしまう。人間の記憶とはそういったものだ。「歴史」と同じように、個人個人の記憶も現在と過去の不断の対話なのである。

 

さぁ、素人童貞になる時間だ

 私は今まで2つの話をしてきた。

 1つは、「素人童貞」の前提となる「童貞」の概念が人間性にまで拡張されてきている現実。

 2つは、人間の歴史=記憶というのが現在と過去との不断の対話であるということについて。

 こうした現実を踏まえると、誰しもが素人童貞になれる広大な世界が目の前に広がりだす。従来ならば、素人とセックスをしたことがある人間は素人童貞になることは不可能だった。なぜならば「童貞」かそうでないかの基準は、挿入の経験があるかないかで決められていたからだ。しかし、今の世界ではもはやそれは通用しない。「童貞」であるかどうかは、人間性にまで拡張されてきているからだ。そうは言っても、まだこういうことを言う奴がいるかもしれない。

「いやいや、俺は挿入の経験もあるし、人間的にも童貞っぽいところは一切ない」

 しかし、もはやこれも通用しない。記憶の話を思い出してほしい。例え、今は自分は童貞を超えた超童貞級の人間だと思っていたとしても、全国大会で自分より格上の怪物を目撃したあの高校生のように(!)、何らかの拍子で「俺は超童貞級なんかじゃなかった…ただの童貞だった。」と思う日がやってくるかもしれないからだ。

 

お前はもう風俗に行ったら素人童貞

  ではそういう奴がもし風俗に行ったらどうなるか?レベルの高い風俗嬢の性行為中の圧倒的コミュ力や、エロに対する飽くなき探求心、たぐいまれない技術を目撃し、「性行為の世界はこんなに広かったのか。今まで性行為を経験し、人間性にも問題はなかったから俺は童貞ではないと思っていたけど、無知なだけだった。俺は童貞だったんだ。。。」と反省する日が必ず来るだろう。反省したとうことは、風俗で初めて知ったことがあったという証だ。言わば初体験だ。ん?風俗で初体験?

お前、もう素人童貞やないか。

 

素人童貞という生き方

 さぁ、もうわかっただろう。「素人童貞」というのはもはや「風俗嬢としかセックスしたことがない人」という消極的な意味ではあり得ないのだ。 「素人童貞」とは、風俗に行き、風俗嬢とのエロを含めたコミュニケーションの中で不断に新たな発見し続け、過去の自分を反省することで、自己鍛錬ができる人間のことを言うのだ。風俗で新たな発見ができる限り、誰しもが素人童貞になることができる。風俗に行き、自己を磨き、自分の中に様々な初体験を蓄積していくこと。「素人童貞」とは、そうした積極的な生き方に他ならない。

なぜ風俗レポを書くのか?

 大学生の頃から、風俗レポにはまっていた。風俗レポとは、自分が風俗に行った体験談をレポートにして、風俗レポサイトなどに投稿することである。

 風俗レポは結構お金になる。1つの体験談で5000円~1万円もらえるサイトはざらにあるし、実績を積んでサイトの管理人と信頼関係を築けたら『プレイ代全額負担するから〇〇について調査してきてください』な~んておいしい話がこぼれてきたりもする。

 遊びに行く風俗店の業態や、風俗レポサイト、1か月に風俗に足を運ぶ頻度などを調整すれば、ほとんどプレイ代を払わずに風俗遊びができちゃうのも夢ではない。ライター業が読者モデル化したなんて言われる昨今、文章の素人でも頑張ればそんな夢のような生活が送れるのだ。

 

 そんな風に、金銭的にお得という理由ももちろんあるが、それ以上に、風俗レポを書きたくて書きたくて仕方がないという情熱もある。いや、情熱というよりも、性癖に近いかもしれない。もう風俗レポを書きたくて書きたくて仕方がないのだ。

 昔、2chの風俗嬢が愚痴を言う掲示板に『風俗レポ書くきもい奴ら、あいつら風俗で遊びたいんじゃなくて、レポート書くために遊びにきやがる。きもすぎw』なんて書き込みを見たことがあるが、これが図星だったりする。レポするために遊びにいくと言ってもいいくらい、風俗レポを一本書き終えた時には気分がスカッとする。射精の時よりもスカッとすると言っても……過言だ。うん、さすがにそれは過言だ。

 

 風俗レポを書きたいという情熱。この正体は一体何か?真剣に考えてみよう。

 

 風俗で女の子(あるいは男の娘)とイチャイチャ性的な遊びをするからには切り離せないのが〝疑似恋愛〟である。「あの子は俺のことが好きに違いない!」とガチ恋ストーカー客とまではならなくとも、「あの子は俺に興味がある!」「あの子は俺に優しくしてくれる!」という思いにしてもらいたいのが客心である。というか、それを目当てに遊びに行っていると言っても過言ではない。

 しかし、ここには無視できない問題もある。いくら風俗嬢が自分のことを大切にしてくれ「この子にとって俺は特別な存在だ!」という気持ちにさせてくれようが、自分は数多いる客の内の1人にすぎないという現実である。仕事だから当たり前な話だが、風俗嬢は多くの客に気に入られようとする。目の前の1人1人の客を大切にしているのは事実だが、本当はその先のもっと抽象的な『客一般』を大切にしているのだ。その過程で「1人1人のお客さんを特別な存在として扱う」という戦略が採用されているにすぎない。

 

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このように、風俗嬢は客の背後に抽象化された『客一般』を見ている。

時に風俗嬢はこの『客一般』のことを『諭吉』と言ったりもする。

 

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このように「自分は特別な存在として扱われるが、それは自分が『客一般』に含まれる限りにおいてである」という事態が、風俗客に刻まれる根本的な苦しみである。

  ガチ恋ストーカー客にでもならない限り、風俗客はこの苦しみと向き合わなければならない。しかし、風俗客も人間だ。黙っているばかりではない。この苦しみと対峙するために一つの戦略が採用される。

 

 風俗嬢が『客一般』を見ているのなら、俺が『客一般』になればいい

 

 そう、その戦略がまさに〝風俗レポ〟だ。

 風俗レポというのは、いい風俗嬢を共有するために、同志である風俗客に向けて書かれる。なるべく多くの風俗客が風俗嬢選びに失敗しないように、多くの風俗客が読んで納得できるようなレポートが良いレポートだ。そんなレポートを書くには、この風俗嬢のここが良い、ここが悪い、という価値判断をなるべく多くの風俗客と共有できるように己を磨かなければならない。この時、風俗レポを書く自分は『客一般』になろうとしている。風俗嬢が、自分のことを『個別の客』-『客一般』という二重性で見るのならば、自分もまた『個別の客』-『客一般』という二重性を背負えばよい。そうすることによって「自分は特別な存在として扱われるが、それは自分が『客一般』に含まれる限りにおいてである」という苦しみから解放されるのだ。なぜなら俺こそが『客一般』だからである。

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 もちろん、万人受けする風俗嬢がいないように、万人受けする風俗レポというのは存在しない。しかし、それでも『客一般』のために努力し続ける風俗嬢が存在するのと同様に、『客一般』になるためにレポートを書き続ける風俗客も存在するのだ。

 

 娼婦とだけセックスをし、素人童貞として死んだドイツの哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが遺した言葉の中に、以下の有名な格言がある。

      汝が闇をのぞき込む時、闇もまた汝をのぞき込んでいるのだ

  

世界的な素人童貞の先輩に敬意を示し、この格言になぞらえて締めの句としよう。

 

     風俗嬢が『客一般』をのぞき込む時、

             『客一般』もまた風俗嬢をのぞき込んでいるのだ

 

 

 

 

 

使用した風俗嬢の絵の参照元

 

使用した風俗客の絵の参照元