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素人童貞のブログ

文系無職からのシステムエンジニア辛い

この世界の誰もが素人童貞になれる魔法の思考術

素人童貞とは?

 素人童貞のことを知らない人もいると思うので、まずは「素人童貞」とは何か、というところから考えてみよう。「童貞」というのは誰もが知っているように、性行為の経験がない男性のことを指し示す言葉だ。その「童貞」の上に「素人」がくっつくと、素人を相手にした性行為の経験がない、つまり、プロを相手にした性行為の経験しかない男性のことを意味する「素人童貞」という意味の言葉ができるのだ。

 

素人童貞という言葉の成り立ち

日本の童貞 (河出文庫)

日本の童貞 (河出文庫)

 

 

 社会学者の澁谷知美さんの著書『日本の童貞』によれば、「素人童貞」という言葉は、1983年(昭和58年)の雑誌『月刊プレイボーイ3月号』で「プロの女性としかイタしておらぬ仮性オトコ」と定義されて出てきたのが初出であるらしい。性風俗店で働いている風俗嬢以外の女性との性行為の経験がない男性に対して蔑んで用いる言葉で、1980年代末頃から定着してきた言葉だそうだ。しかし、実際には「素人童貞」という言葉なんて根付いているだろうか?

 私は「素人童貞」という用語のエゴサーチを日課にしているが、「素人童貞」という言葉を知らない人や、「童貞の中でも素人と玄人の序列があるのか!」みたいに間違って「素人童貞」という言葉を捉えている人間が数多くいるのが現状だ。しかし、これには仕方のない部分もある。「素人童貞」という言葉は、実のところ意味が曖昧だからだ。

 少しでも「素人童貞」という言葉について考えたことがある人ならば、すぐこの問いに行き着くはずだ。

「風俗嬢じゃなくて援助交際でSEXした人も素人童貞なのか?」

「風俗で挿入はしなかったけど、素股とかした人は素人童貞なのか?」

 厳密に考えれ考えるほど、「素人童貞」という言葉の曖昧さにただただ打ちひしがれてしまう。それに、よくよく考えてみてほしい。そんなに厳密に考えることだろうか。そんなことはないだろう。いや、むしろ厳密に考えるべきではない、と言うべきだろうか。我々の住む世界は「素人童貞」という概念が誕生した1980年代から30年も進んでいる。取り巻く環境が既に変わってきてしまっているのだ。

 

童貞」概念の広がり

 「素人童貞」という概念は、当然、「童貞」という概念を前提にしている。「素人童貞」を考えるために「童貞」という概念について考えてみよう。

 

 「なんかお前童貞くさいなぁ」

 「お前童貞脳だなぁ~」

 

 2010年代の今の世界に住む私たちは、日常的にこんな会話をする。自覚的であろうが無自覚的であろうが、誰かが童貞かそうでないかを、実のところ性行為をしたことがあるかどうかでは判断していない。性行為どころか、その人の考え方や話し方、もっと言ってしまえばその人の人間性で、童貞っぽいかそうでないかを判断しているのが現代人だ。

D.T.

D.T.

 

  そのように、童貞かどうかの基準を人間性にまで拡張した先駆的な書物と言えば、みうらじゅん伊集院光の「D.T.」である。この本が出版されたのは2002年だ。それから10年以上、「童貞っぽい性格」や「童貞脳」という表現は、日常会話でも見られるようになった。もはや、性行為の経験がある者もない者も、人間性で童貞かどうかを判断される世界だ。変わってきている。私たちを取り巻く世界は確かに変わってきている。このように「童貞」の概念の意味が変わって来ているのならば、それを前提としている「素人童貞」の概念の意味するところも変わってこざるを得ない。そして、その言葉の意味の移り変わりによって、素晴らしい世界が広がる。誰しもが「素人童貞」になれる可能性のある世界だ。

 

僕は誰しもが素人童貞になれることを証明しようと思う

 誰しもが素人童貞になれる世界?そんな世界はあるだろうか。ある。それを証明するために、まずは人間の記憶の話をしよう。そうだな、まずは日本人の記憶の集大成でもある日本史の話から始めよう。少しだけ、個人的な経験を聞いていただきたい。

 私は中学・高校と、日本史の勉強が嫌いで嫌いで仕方がなかった。本当かどうかわからないことを歴史的事実として教えられるという嘘くさい感じが嫌だったのだ。例えば私が高校生の頃、鎌倉幕府成立の年号が1192年ではなく実は1185年ということがわかった。さんざん「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府!」とか言っておいて、それが間違っていたのだ。歴史的事実なんて所詮その程度のもの。あまりの意味のなさに私は更に歴史を勉強しなくなってしまった。

 

「歴史=事実」という考え方がピュアすぎた

 しかし、大学で勉強する中で、自分の考えがあまりにもピュアすぎたことが判明した。「歴史なんて本当かどうかわからないじゃないか!」と反発していた自分こそ、「歴史=確固たる事実」という考え方に最も囚われていた存在だったのだ。大学で出会った頭の良い人間は最初からそんな考え方などしていなかった。ではそのような人たちは歴史をどう捉えていただろうか? 

 例えばイギリスの歴史家E・H・カーの著書「歴史とは何か」にその考え方の答えが書かれている。

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

 

  カーによれば、「歴史」の定義は以下のようになる。

 

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。

  

 歴史とは、現在と過去の尽きることを知らぬ対話!まさにこれである。今まで教えられていた「鎌倉幕府が1192年に開かれた」というのは厳密に言い換えるならば、「鎌倉幕府が1192年に開かれたという資料が今のところ有力とされている」という意味であり、それは歴史家が過去と対話している最中ということなのだ。そのように考えれば「鎌倉幕府が開かれたのは1185年になりました」というのは、「鎌倉幕府が開かれたのは1185年だという資料が新たに発見された」という意味なのであり、歴史家と過去の対話が一歩進んだということだ。確固たる歴史的事実が眠っていてそれを〝発見〟して終わりなのではなく、一番有力な、一番妥当な歴史的事実を不断に探究し、過去と対話し続けていくこと。これこそが「歴史」なのである。そのような態度でいれば、「なんだよ!今まで教えられてたのは嘘だったじゃないか!」なーんて昔の私のようにナイーブになる必要もない。新しく歴史が塗り替えられたならば「おー、研究が進歩したのか」と素直に感心すればよいのだ。それが「歴史」を現在と過去との対話としてみる態度ということだ。

 

それぞれの人間の個人史も同じ

 頭の悪い私にとっては「歴史とは何か」という問題は大問題だったのだが、よくよく考えてみればこれは当たり前のことだ。さっきまでは集団の記憶である「歴史」について考えてきたが、普通に個人的な記憶について考えてみればよい。

 例えば高校生の頃に何か勉強や運動が得意で、「お前は超高校生級だ!」なんて周りの大人にチヤホヤされている状況を思い浮かべてみるとよい。そんなことを周りの大人から言われれば、高校生くらいなら「俺は超高校生級だ!」なんて思ったりするのが普通である。しかし全国大会などに出場して、自分より格上の高校生がうじゃうじゃいる現実を知った時、「俺は超高校生級なんかじゃなかった!ただの高校生じゃないか!」なんて挫折したり絶望を味わったりすることもある。自分が普通の高校生級なのか、超高校生級なのか、それはどこかに確固たる事実が存在して〝発見〟されるようなものではなく、「歴史」と同じように、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話の中で探究され続けていくものなのだ。現在の状況が変われば、過去に「超高校生級」だった自分も「普通の高校生」に変わってしまう。人間の記憶とはそういったものだ。「歴史」と同じように、個人個人の記憶も現在と過去の不断の対話なのである。

 

さぁ、素人童貞になる時間だ

 私は今まで2つの話をしてきた。

 1つは、「素人童貞」の前提となる「童貞」の概念が人間性にまで拡張されてきている現実。

 2つは、人間の歴史=記憶というのが現在と過去との不断の対話であるということについて。

 こうした現実を踏まえると、誰しもが素人童貞になれる広大な世界が目の前に広がりだす。従来ならば、素人とセックスをしたことがある人間は素人童貞になることは不可能だった。なぜならば「童貞」かそうでないかの基準は、挿入の経験があるかないかで決められていたからだ。しかし、今の世界ではもはやそれは通用しない。「童貞」であるかどうかは、人間性にまで拡張されてきているからだ。そうは言っても、まだこういうことを言う奴がいるかもしれない。

「いやいや、俺は挿入の経験もあるし、人間的にも童貞っぽいところは一切ない」

 しかし、もはやこれも通用しない。記憶の話を思い出してほしい。例え、今は自分は童貞を超えた超童貞級の人間だと思っていたとしても、全国大会で自分より格上の怪物を目撃したあの高校生のように(!)、何らかの拍子で「俺は超童貞級なんかじゃなかった…ただの童貞だった。」と思う日がやってくるかもしれないからだ。

 

お前はもう風俗に行ったら素人童貞

  ではそういう奴がもし風俗に行ったらどうなるか?レベルの高い風俗嬢の性行為中の圧倒的コミュ力や、エロに対する飽くなき探求心、たぐいまれない技術を目撃し、「性行為の世界はこんなに広かったのか。今まで性行為を経験し、人間性にも問題はなかったから俺は童貞ではないと思っていたけど、無知なだけだった。俺は童貞だったんだ。。。」と反省する日が必ず来るだろう。反省したとうことは、風俗で初めて知ったことがあったという証だ。言わば初体験だ。ん?風俗で初体験?

お前、もう素人童貞やないか。

 

素人童貞という生き方

 さぁ、もうわかっただろう。「素人童貞」というのはもはや「風俗嬢としかセックスしたことがない人」という消極的な意味ではあり得ないのだ。 「素人童貞」とは、風俗に行き、風俗嬢とのエロを含めたコミュニケーションの中で不断に新たな発見し続け、過去の自分を反省することで、自己鍛錬ができる人間のことを言うのだ。風俗で新たな発見ができる限り、誰しもが素人童貞になることができる。風俗に行き、自己を磨き、自分の中に様々な初体験を蓄積していくこと。「素人童貞」とは、そうした積極的な生き方に他ならない。

なぜ風俗レポを書くのか?

 大学生の頃から、風俗レポにはまっていた。風俗レポとは、自分が風俗に行った体験談をレポートにして、風俗レポサイトなどに投稿することである。

 風俗レポは結構お金になる。1つの体験談で5000円~1万円もらえるサイトはざらにあるし、実績を積んでサイトの管理人と信頼関係を築けたら『プレイ代全額負担するから〇〇について調査してきてください』な~んておいしい話がこぼれてきたりもする。

 遊びに行く風俗店の業態や、風俗レポサイト、1か月に風俗に足を運ぶ頻度などを調整すれば、ほとんどプレイ代を払わずに風俗遊びができちゃうのも夢ではない。ライター業が読者モデル化したなんて言われる昨今、文章の素人でも頑張ればそんな夢のような生活が送れるのだ。

 

 そんな風に、金銭的にお得という理由ももちろんあるが、それ以上に、風俗レポを書きたくて書きたくて仕方がないという情熱もある。いや、情熱というよりも、性癖に近いかもしれない。もう風俗レポを書きたくて書きたくて仕方がないのだ。

 昔、2chの風俗嬢が愚痴を言う掲示板に『風俗レポ書くきもい奴ら、あいつら風俗で遊びたいんじゃなくて、レポート書くために遊びにきやがる。きもすぎw』なんて書き込みを見たことがあるが、これが図星だったりする。レポするために遊びにいくと言ってもいいくらい、風俗レポを一本書き終えた時には気分がスカッとする。射精の時よりもスカッとすると言っても……過言だ。うん、さすがにそれは過言だ。

 

 風俗レポを書きたいという情熱。この正体は一体何か?真剣に考えてみよう。

 

 風俗で女の子(あるいは男の娘)とイチャイチャ性的な遊びをするからには切り離せないのが〝疑似恋愛〟である。「あの子は俺のことが好きに違いない!」とガチ恋ストーカー客とまではならなくとも、「あの子は俺に興味がある!」「あの子は俺に優しくしてくれる!」という思いにしてもらいたいのが客心である。というか、それを目当てに遊びに行っていると言っても過言ではない。

 しかし、ここには無視できない問題もある。いくら風俗嬢が自分のことを大切にしてくれ「この子にとって俺は特別な存在だ!」という気持ちにさせてくれようが、自分は数多いる客の内の1人にすぎないという現実である。仕事だから当たり前な話だが、風俗嬢は多くの客に気に入られようとする。目の前の1人1人の客を大切にしているのは事実だが、本当はその先のもっと抽象的な『客一般』を大切にしているのだ。その過程で「1人1人のお客さんを特別な存在として扱う」という戦略が採用されているにすぎない。

 

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このように、風俗嬢は客の背後に抽象化された『客一般』を見ている。

時に風俗嬢はこの『客一般』のことを『諭吉』と言ったりもする。

 

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このように「自分は特別な存在として扱われるが、それは自分が『客一般』に含まれる限りにおいてである」という事態が、風俗客に刻まれる根本的な苦しみである。

  ガチ恋ストーカー客にでもならない限り、風俗客はこの苦しみと向き合わなければならない。しかし、風俗客も人間だ。黙っているばかりではない。この苦しみと対峙するために一つの戦略が採用される。

 

 風俗嬢が『客一般』を見ているのなら、俺が『客一般』になればいい

 

 そう、その戦略がまさに〝風俗レポ〟だ。

 風俗レポというのは、いい風俗嬢を共有するために、同志である風俗客に向けて書かれる。なるべく多くの風俗客が風俗嬢選びに失敗しないように、多くの風俗客が読んで納得できるようなレポートが良いレポートだ。そんなレポートを書くには、この風俗嬢のここが良い、ここが悪い、という価値判断をなるべく多くの風俗客と共有できるように己を磨かなければならない。この時、風俗レポを書く自分は『客一般』になろうとしている。風俗嬢が、自分のことを『個別の客』-『客一般』という二重性で見るのならば、自分もまた『個別の客』-『客一般』という二重性を背負えばよい。そうすることによって「自分は特別な存在として扱われるが、それは自分が『客一般』に含まれる限りにおいてである」という苦しみから解放されるのだ。なぜなら俺こそが『客一般』だからである。

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 もちろん、万人受けする風俗嬢がいないように、万人受けする風俗レポというのは存在しない。しかし、それでも『客一般』のために努力し続ける風俗嬢が存在するのと同様に、『客一般』になるためにレポートを書き続ける風俗客も存在するのだ。

 

 娼婦とだけセックスをし、素人童貞として死んだドイツの哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが遺した言葉の中に、以下の有名な格言がある。

      汝が闇をのぞき込む時、闇もまた汝をのぞき込んでいるのだ

  

世界的な素人童貞の先輩に敬意を示し、この格言になぞらえて締めの句としよう。

 

     風俗嬢が『客一般』をのぞき込む時、

             『客一般』もまた風俗嬢をのぞき込んでいるのだ

 

 

 

 

 

使用した風俗嬢の絵の参照元

 

使用した風俗客の絵の参照元

 

 

M性感嬢との対話⑥

3月14日 M性感嬢との会話

小雨の降る夜に、都内の某ラブホテル、30代前半くらいのM性感嬢とのプレイ終わりの会話

 

嬢『そいえばね、ドライオーガズムについてまとめたノートがあるの!』

我『見して』

 

嬢『ほら、これ!射精の快感がこういう形のグラフだとすると、ドライオーガズムの快感はこんな感じなの』

 

我『へぇー』

 

嬢『そんでね、ドライオーガズムの感想も人によって違うの。気持ち良い型の人と、世界が広がった型の人と、よくわかんない型の人がいるの』

 

我『あー、自分は世界が広がる型かも。そいえばさ、ドライオーガズムと宇宙を結びつける人っていない?』

 

嬢『いるよいるよ!っていうか私も宇宙と繋がってる人だから、ほら、今日も水晶とかつけてるし、この水晶、宇宙と繋がってるんでゲス!』

 

我『そうだったのか』

 

嬢『うん、なんか昔から人と話が噛み合わないなーっ、て思ってたけど、多分私が宇宙人だからだったんだ、でゲス!』

 

我『まじか、宇宙人だったのか。でゲスって急になんですか?(笑)』

嬢『宇宙人でゲス!』

 

我『宇宙人でゲス!』

 

嬢『右乳首をツーンでゲス!』

 

我『あっ』

 

嬢『右乳首をツーンでゲス!』

 

我『あっ』

 

我『そろそろ時間だからホテル出ないと』

嬢『出ないと、でゲス!』

 

 

 

この後、エレベーターで1Fまで降りてフロントを出るまで、服の上から『乳首ツーンでゲス!』と乳首をツンツンされ、ホテルを後にした。

 

射精の快感が向上する筋トレ

 KindleUnlimitedに登録されていたので読んでみた。

 『男性のオーガズムってこんなにあったのか!?: ここまで気持ち良くなれる!何倍、何十倍の莫大なオーガズムのパワー』

 

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 人を煽るようなタイトルとは違って、内容は突飛なわけではなく、ゲイ男性の個人的なエピソードも織り交ぜながら『自分の性癖をしっかり伝えることが大切だよね』って結論になる良心的な感じの本だった。

 

 この本の中に射精の快感を向上させるお手軽な方法が1つあったのでまとめておこう。

 

 「骨盤底筋」という筋肉の部位を鍛えるといいらしい。下の図の赤い部分。

 

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 【トレーニングの仕方】

 1、股や腹の筋肉をリラックスさせる。

 2、お尻をすぼめ、股や腹筋を動かさずに、おしっこの時に途中でおしっこを止める動作をする。

 3、その状態を2秒維持し、解放する。

 4、休む

 5、1~4を3回ほど繰り返す。

 

だそうです。慣れてきたらだんだんと維持する時間を長くしていく。

下腹部のあたり痛みを感じたらやり方が正しくないので、腹筋に力を入れるなとのこと。

 イメージとしては、オチンポが前から押さえつけられている感覚を想像し、それを撥ね返すようにすると良いらしい。

 そいえば、この前M性感嬢に

『肛門締めれる?ちんちんビクッってさせてみて』という素晴らしいアドバイスを頂いたのだけど、この筋肉のことだったのだろうか?(参照:2月24日(金) M性感嬢との対話③ - 素人童貞のブログ

 

 とりあえずこの著者の方は、数日これを続けたら射精の時に別世界にぶっ飛ぶようになったらしいので、別世界にぶっ飛びたいです。

 ちなみに昨日やってみたら、骨盤底筋を10秒間引き締めた後の下半身の独特な脱力感をどこかで味わったことがあるなぁ~、と思ったのだけど、オナニーの脚ピンの時ですね。もしかしたらオナニーがそのまま筋トレになっていた可能性がありです。そんな人でも効果はあるのだろうか。とりあえず別世界にぶっ飛ぶことを夢見て筋トレに取り入れてゆきます。

「素人童貞は性欲に負けた」について

 「素人童貞」というのは一般的に侮蔑用語である。

 

日本の童貞 (河出文庫)

日本の童貞 (河出文庫)

 

 

 社会学者の渋谷知美さんの著書『日本の童貞』 によれば、「素人童貞」という言葉は、1983年(昭和58年)の雑誌『月刊プレイボーイ3月号』で「プロの女性としかイタしておらぬ仮性オトコ」と定義されて出てきたのが初出であるらしい。性風俗店で働いている風俗嬢以外の女性との性行為の経験がない男性に対して蔑んで用いる言葉で、1980年代末頃から定着してきた言葉だそうだ。

 侮蔑用語として誕生した「素人童貞」であるが、その侮蔑の内容も様々だろう。コミュニケーションの能力がないとか、恋愛経験が少ないとか、セックスにお金を使うなんて!などなど。。。

 その中の1つに、「素人童貞は性欲に負けた」というのがある。よく考えてみるとあまり意味のわからない言葉だが、要するに性欲が高まりすぎてどうしようもなくて手っ取り早い風俗という手段でいつも性行為をしていることを蔑んでいるのだろう。

 

 しかし、素人童貞の私からすれば、そんなことはないと思う。今の時代、風俗に行くのはとても大変なことだ。お店やホームページにあるパネル写真はもちろん、風俗嬢が更新している写メ日記も修正がかかっていてどんな子が出てくるかわからないし、むしろそれでいいと思っているお店も多い。口コミサイトなどもいくつかあるが、お店側が母体となっている口コミサイトの力が圧倒的に強く、信頼できるユーザーの口コミなどはまだまだ少ない。それにユーザーの偽りのない口コミであったとしても、風俗は人と人とのコミュニケーションなので、人が変わればサービスが激変することだってある。要は、情報は溢れているが、信頼できる情報というのがあまりにも少ないのだ。

 それに加えて、お店も女の子も驚くほど大量にいる。お店によってプレイ内容や料金やホテル代のありなしなどが違うし、女の子によっても指名料金が違ったり、できるプレイできないプレイの違いなどもある。これらの膨大な情報から自分が満足できるようなお店や女の子を選ぶなんて、性欲という本能で動いている人にはできないことなのだ。

 それに、性行為をする前に予約をしなければならないのだ!性欲という本能に突き動かされて性行為をする前に予約をする動物なんて人間以外にいるだろうか!素人童貞が行っているのは、性欲に負けた本能的行為ではなく、性欲に基づいた人間の高度な知的行為なのである。

 もうこれだけで「素人童貞は性欲に負けた」というのがいかに甘っちょろい考え方なのかがわかったと思う。しかし、もちろん素人童貞にも「性欲に負けた」と思うことがある。

 

 先に述べたように、風俗で情報を選別して予約をして遊ぶというのは非常に労力のかかることなのである。それにも関わらず、行きたいお店や指名したい女の子を調べている最中、または、明日の予約をした後に、妄想が膨らんで急にムラムラしてきてオナニーを初めてしまうことがある。

「あっ、さっきまであんな苦労して情報集めたのに。。。」

「だめ、今オナニーしたらだめだってば、明日もう予約いれたんだから。。。」

なんて罪悪感もセットで、興奮してオナニーが止まらなくなってしまう。今までの自分の苦労や、明日の予定まで吹っ飛ばして、オナニーを続け、射精にまで至ってしまうこともある。「素人童貞は性欲に負けた」というのは、そういう時のことを言うのである。

 

「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」と問いかけてくる「誕生日」というイベントについて

 昔から、誕生日が来るたびにどこかモヤモヤッとしたものを感じていた。記憶の限りでは、モヤモヤしたものを感じ始めたのは小学1年生くらいの時からだ。もちろん、小さい頃は家族や友達からプレゼントをもらえたり、ケーキを食べられるイベントというだけで誕生日は少なからず嬉しいものであった。それでも心のどこかで、自分を祝ってくれる人間に何故かケチをつけたくなるような、そんなモヤモヤッとした感覚が確かにあった。

 

 この感覚は年を経るにつれて大きくなっていくというか、とても自覚的なものになっていった。現在の年齢が20代中盤の私の中学生の頃というのは、前略プロフィールというのが流行り始めた頃で、高校生になるとネットを駆使する人たちはみんな前略プロフィールというものを持っていた。(前略プロフィールというのは今でいうFacebookとかTwitterの劣化版みたいなもので、自分のプロフィールを作って、そこにゲストブックや呟き機能などを自分で追加するようなもののことである)

 中学から高校にかけての私は、前略プロフィールで自分のプロフィールを公開する際に、【誕生日】の項目は非公開にしていた。公開でも非公開でもいいとかそういう感じではなく、積極的に非公開にしていたのだ。今現在、TwitterFacebookを使う時にもそうしている。

 

 なぜそうしているのかと昔の自分に問えば、祝われるのが照れくさいというか、祝われるというのはリアクションをしなくてはいけなかったりと面倒くさいこともあるし、なにより「この日が私の誕生日ですよ」アピールしてると思われるのが嫌だったからだろう。また、それと同じことであるが、そこには誕生日を祝ってくださいアピールをする人間に対する嫌悪というか、その傲慢さへの驚きというか、他人に祝われると思っているお前は一体何様なんだ、という思いも確かにあった。

 

 そんなもんだから、大学生にもなると、誕生日を聞かれても素直に答えることのできない人間になってしまっていた。大学入学直後なんかは新入生は皆浮かれていて、少し気合いの入った女の子が、誰にも頼まれていないのに同じ学科の人全員の誕生日をメモ帳に記すという奇行に走り出し、私も誕生日を聞かれることになった。

 

「えー、誕生日~?いいよ別に祝われたくないし、めんどくさいから。。。。」

 

 そんな感じで嫌な顔をしてしまったが、奇行者の勢いには勝てず、結局誕生日を教えてしまった。そんなこともあり、大学1年生の誕生日に同じ学科の人数名が誕生日を祝いに自宅に押し掛けてくれたが、居留守して幕を閉じた。以降、誰にも祝われることはなくなった。

 

 昔から「誕生日」にまつわることに関してはずーーっと、こんな感じでモヤモヤッとしたものを感じていて、なぜか理由はわからないけど、普通の人と同じように振る舞うことはできず、どんどんどんどん訳のわからん気難しい人間になってしまっていた。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

 自分がなぜこんなに「誕生日」にモヤモヤしたものを抱えていたのか、はっきりとすることがあった。ちょうど1年前の冬くらいに、社会学者の岸政彦さんの「断片的なものの社会学」のこんな一節を読んだ。

 

 誕生日をお祝いする、ということの意味が、ながいことわからなかったが、やっと最近になって理解できるようになった。ずっと、どうして「ただその日に生まれただけ」で、おめでとうを言ったり言われたりしないといけないのか、判然としなかったのだけれども、その日だけは私たちは、何も成し遂げなくても、祝福されることができる。誕生日は、一年にいちど、かならず全員に回ってくる。何もしないでその日を迎えただけなのに、それでもおめでとうと言ってもらえる。誕生日とは、そういうことだったのである。…(中略)…

 私たちは普段、努力してなにかを成し遂げたことに対してほめられたり、認められたりするが、ただそこに存在しているだけで、おめでとう、よかったね、きれいだよ、と言ってもらえることはめったにない。だから、そういう日が、人生のなかで、たとえ一日だけでもあれば、私たちは生きていけるのだ。(『断片的なものの社会学』 岸政彦)

 

  

 もちろん、私は岸政彦さんのように誕生日を肯定的に考えることはできないし、「そういう日が、人生のなかで、たとえ一日だけでもあれば、私たちは生きていけるのだ。」なんて言うことはできない。ただ、この文章を読んで、誕生日はただ自分が存在しているだけで祝われる唯一の日なんだな、と腑に落ちた。。。「ただ自分が存在しているだけで祝われる唯一の日」これほど恐ろしいものがあるだろうか。

 

 例えば、仕事の出来不出来で人から評価されるとき、「この人は仕事上で評価されるべき人間か否か」で評価される。自分の評価が良かろうが悪かろうが、そこには評価項目と自分の今までの仕事の成果というわかりやすい判断材料があり、自分の評価のされ方と結果についてある程度納得することができる。それに、いくら影響が大きかろうが、あくまで仕事上の話にすぎない。

 しかし、ただ存在しているだけで祝われる誕生日ではどうだろうか。ここでは、「この人はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という指標で評価される。そこには確かな評価項目も、判断材料もないし、祝われようが祝われなかろうが、確かな納得を得ることは難しい。いくらでも「自分という存在はもっと祝福されるべきだ!」とも思えるし、反対に、いくらでも「自分という存在は祝福なんてされるべきではない!」とも思えてしまう。

 私の場合は、確実に後者だ。もう自分がそういう考えになってしまうことはわかっている。だから誕生日はひた隠しにするし、できることなら祝われたくない。もし祝われてしまったら、「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という問いに否応なく襲われてしまうからである。

 

 

 誕生日というのは、どうやら他の日よりも自殺率が急激に高くなる日らしく、それは世界的に同様の傾向があるらしい。その原因はまだはっきりしていないようだけど、誕生日が「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という問いを発生させるイベントだという性質も一つの大きな要因であるだろう。その問いに対する応えとして、自殺を選択する、という人だっているだろう。

 

 1年に1度、誕生日はやってくる。

 1年に1度、「お前はただ存在しているだけで祝福されるべき人間か否か」という問いがやってくる。

 

 この問いと格闘してきて20数年。年数的に考えればもうベテランの領域なので、そろそろこの問いとうまく闘えるようになっていきたい。

 

あぁ、くそっ!セックスしてぇ!

あぁ、くそっ!セックスしてぇ!

 

 中学・高校の頃の僕の口癖だった。もちろんセックスはしたことがなかった。

 中学の頃、野球部に所属していた。

 練習で何度もうまくいかないことがあったり、試合でミスしてイライラした時、周りの人には聞こえない声で

 

あぁ、くそっ!セックスしてぇ!

 

 そう呟いた。

 実際にセックスをしたかったのかと問えば、おそらくそんなことはなかった。

 中学生の頃、一度だけ女の子とセックスの約束をしたことがあった。

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 清水駅の近くの西友のトイレで、土曜日の午後2時からセックスを開始する約束をしたことがあった。実際に土曜日の朝に目を覚ますと、まったくセックスをしたいとは思わなかった。僕はすかさず相手の女の子に本日セックスをしない旨のメールを送った。

  そんなことがあった後も僕は

 

あぁ、くそっ!セックスしてぇ!

 

と事あるごとに呟き続けた。

 高校の頃は、テニス部に所属していた。テニスはメンタルのスポーツというだけあって、うまくいかない時は練習中も試合中も物凄くイライラした。

 そんな時は、高校生の僕も中学生の僕と同じように

 

あぁ、くそっ!セックスしてぇ!

 

と呟き続けた。

 もちろん高校の頃もセックスはしなかった。

 

あぁ、くそっ!セックスしてぇ!

 

 そう呟きたくなるあの気持ちは何だったのだろう…。今から考えてみてもわからない。自分のことなのに不思議なものである。。。割とみんな呟いているのかと思ったけど、どうやらそういうことでもないらしい。

 今はもう大人になったので、イライラしてもそんな下品なことは呟きはしなくなった。だからこそ、余計にあの頃の自分の気持ちがわからない。例えば今でも仕事がうまくいかなくてイライラするようなことはあるが、そういう時は風俗に行くようになった。